バカリズム
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かねてからドラえもんの大ファンを公言していたが、ドラえもん50周年記念映画『STAND BY ME ドラえもん 2』に声優として参加[34]

水曜日のダウンタウン』2021年3月24日放送で開かれた30秒ネタのネタバトル企画「30-1グランプリ」でプレゼンター、そして松本人志伊集院光らとともに審査員を担当。以降、年1回ペースでこの企画は放送されているが全ての回でプレゼンターと審査員を務めている。

2年ぶりとなるバカリズムライブ『○○』を草月ホールにて2021年5月13日 - 5月16日に開催予定でチケット発売もされていたものの、「4月25日に発令された新型コロナウィルス緊急事態宣言が5月末まで延長された」影響を受け全5公演のうち2公演が中止に。残りの3公演はオンライン配信のみの無観客開催[35]

新型コロナウイルスに感染したことを所属事務所が2022年2月1日発表。療養期間を経て2月12日から仕事復帰。

R-1グランプリ2022』では初の賞レース審査員を担当。先述のR-1卒業以降、他の歴代ファイナリストのように関連番組や特番への出演も一切なかったため、最後の出場だった2010年以来12年ぶりの凱旋となった。翌年2023年も続投[36]

ドラマ『ブラッシュアップライフ』(日本テレビ)で脚本・出演を担当。Twitterでトレンド世界1位になるなどといった驚異的な盛り上がりを見せ、第49回放送文化基金賞 テレビドラマ部門 奨励賞、第39回ATP賞テレビグランプリ 総務大臣賞・優秀賞、東京ドラマアウォード2023 脚本賞など国内外で様々な賞を受賞した。

第74回NHK紅白歌合戦』(2023年末)にてゲスト審査員を担当[37]

『IPPONグランプリ』には28回大会中27回に出演し、うち6回で優勝経験があるが、2024年2月3日放送予定の第29回大会では、芸能活動休止中の松本人志の代理としてチェアマンのポジションを務めることとなった[38]
人物

身長165 cm[1]、体重60 kg[1]、血液型はA型[1][39]飯塚高等学校日本映画学校(現・日本映画大学)俳優科卒業[1]。喫煙者。妹がいる。酒は一杯程度であれば飲むことができ、乾杯には参加している。実家は祖父の代から弁当店「田川給食センター」を営んでいたが[14]、父が40歳の時に廃業。その後、父は転職し勤めていたが、升野が高校2年の1993年2月に45歳の若さで急逝。その翌月には祖父も亡くなっている[40]

高校受験の際、本命だった県立西田川高校を受験したものの不合格。滑り止めで受けていた男子校の飯塚高校に入学し、野球部に所属。2年の夏の前に足を複雑骨折し、記録員等の裏方に回るように言われ「このままだと選手として試合に出られなくなる」と思い筋力トレーニングをした結果、高校3年時の夏の甲子園福岡県予選では背番号16でスタメン出場を果たした。甲子園出場は目標というより、「絶対に出るもんだ」と思っていたため、帽子のつばの裏に「全国制覇」と書き、打席でいかに目立つ動きをするかを研究して、当時憧れていた池山隆寛(ヤクルト)のフォームを真似していた[41]

血気盛んな地域に住んでいたことから喧嘩することも多く、温和そうな見た目とは裏腹に体育会系であることから「武闘派」と呼ばれることが多い。なお高校時代に升野はレンガで頭を殴られたことがあり、殴った相手が同郷の小峠英二バイきんぐ)の知人であることが後に発覚した[42]。ヤンキーに憧れがあり、剃りこみらしきものを入れたり少し改造した学生服を着たりしていた[43]。小峠英二とは若手当時は面識がなかったが、地元で親同士は知った仲であったので小峠の親から升野の親伝いに「英二は実家へ連絡して来ないから心配なので、おなじく東京に居り同じ業界の升野さん、目を掛けてください。」との依頼があったという。しかし、親交ができたのはバイきんぐがキングオブコントで優勝し売れた辺りから[44]

健康診断でMRIを受けた際に「考え過ぎの超論理的思考で脳が変わってきており、左脳が少し右脳の部分まで来てしまっている」という結果が判明した[45]

「初対面の際に敬語で話してからタメ口に変わるまでのグラデーションが恥ずかしい」という理由で[46]、同期や他事務所の後輩芸人に対しても敬語を使うことが多い。

妻の作る手料理で好きなものは「炊き込みご飯」[47]

第1子となる男児が誕生したことを2023年10月25日発表[48][49]
芸風

主に一人コント、フリップネタ、映像ネタなどを行う。『爆笑レッドカーペット』内でのキャッチフレーズは「お笑い四次元ポケット」。なおコンビ時代に出演していた『完売劇場』主催のイベント「東京腸捻転」内でのキャッチフレーズは「革命遊園地」。

高校卒業後、芸人を志すも当時の主流であったNSCではなく日本映画学校への進学を決意。その理由として「役者志望の人間ばかりの中に芸人志望で一人だけいたほうが圧倒的に才能があるように見えるから」「関西弁じゃないから大阪NSCには行きたくなかったし、東京には当時まだNSCがなかったから」と語っている[50]


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