バイロイト音楽祭
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これらは少なくとも現在は原則として4部作すべてで同一の指揮者・演出家が担当するセット上演であり、単独および分割での上演はない)が上演される年は他の6演目(『さまよえるオランダ人』『タンホイザー』『ローエングリン』『トリスタンとイゾルデ』『ニュルンベルクのマイスタージンガー』『パルジファル』)の中から3演目、合わせて7演目が上演される。通常、5年連続して『ニーベルングの指環』が上演され、1年おいて新演出の『指環』が上演されるというスケジュールだが、『指環』が上演されない年はそれ以外の6演目の中から5演目が上演される。

ただし、例外的にかつて祝祭劇場の定礎式にワーグナー自身の指揮によってベートーヴェン交響曲第9番がこけら落としとして演奏された由来に基づき、ワーグナー以外の作品では唯一この交響曲が(主に節目の年に)特別に演奏されることがある。第二次大戦で音楽祭がしばらく中断した後、1951年に再開した際の最初の演奏も、ワーグナーのこけら落としにならって、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮による同曲で再開している(この時の演奏はライブ録音されて、レコード、CDとして発売されている)。
歴史
第1回から第二次大戦終結までラインの黄金』の上演(1876年)

ワーグナーはかねてから、己の楽劇を、他人の手に触れさせず己の理想的な形で上演することを夢見て、劇場用の土地を捜し求めていた。しかしなかなか理想的な場所は見つからず、苦心して捜し出した土地も、政治的な理由などで追い出されたりした。やがて親しくしていたバイエルン国王ルートヴィヒ2世により、バイロイト辺境伯夫人ヴィルヘルミーネプロイセンフリードリヒ2世の姉)が建築した辺境伯劇場があった、バイロイトの地を提供された。だがそこにあった劇場にも満足できなかったワーグナーは、自ら劇場を建築することを決心する。ルートヴィヒ2世からの資金提供を受け、定礎式の収入なども建築費用に充てた。あくまで「仮住まい」として建築されたため、建築費用は抑えられた。余った費用は、別荘であるヴァンフリート館建築などに充てられた。しかし、それ以外の費用(上演用など)は全然足りなかったので、ルートヴィヒ2世に懇願してさらに借金をしている。

1876年、ルートヴィヒ2世やドイツ皇帝ヴィルヘルム1世ブラジル皇帝ペドロ2世などの国賓や、フランツ・リストアントン・ブルックナーカミーユ・サン=サーンスピョートル・チャイコフスキーエドヴァルド・グリーグの音楽家らの観衆を集め、ハンス・リヒター指揮『ニーベルングの指環』で第1回の音楽祭が開かれた。結果としては大赤字となり、舞台評もあまり芳しくなく、ワーグナー自身もひどいになるほどの落ち込みようだった。また、大赤字が尾を引いたせいで1882年まで音楽祭は開かれず、『指環』も1896年まで上演されなかった。第2回の1882年以降は休みの年を挟みながらなんとか開催されたが、第一次世界大戦と、戦後の混乱の影響で、1915年から1923年までは開催されなかった。1937年のバイロイト音楽祭でのヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相とヴェルナー・フォン・ブロンベルク国防相

再開後のエポックは、1930年アルトゥーロ・トスカニーニ初出演であった。それまではドイツ人・ドイツ系指揮者しか指揮台に立たなかったが、リヒャルトの息子ジークフリート・ワーグナーとその妻ウィニフレッド・ウィリアムズの尽力で、初の外国人指揮者として招聘されたのであった。


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