バイヨンヌ
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バイヨンヌ(フランス語: Bayonne [baj?n] ( 音声ファイル)、バスク語: Baiona、ガスコーニュ語: Baiona、スペイン語: Bayona)は、フランス南西部、ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏ピレネー=アトランティック県の郡庁所在地で、フランス領バスクの中心都市である。
地理大バイヨンヌとサント=マリー大聖堂バイヨンヌの市街

バイヨンヌはビスケー湾からアドゥール川をさかのぼった、ニーヴ川との合流点に位置する。ピレネー=アトランティック県ではポーに次ぐ規模で、バイヨンヌ・エスト(東)、バイヨンヌ・ウェスト(西)、バイヨンヌ・シュド(南)の3つのカントンの小郡庁所在地でもある。バスク地方においてはピレネー山脈以北の北バスクの1地域、ラブールの主要都市である。

市街中心部はアドゥール川とニーヴ川によって、大バイヨンヌと小バイヨンヌ、サンテスプリの3つの区域に分けられる。それぞれの区域は橋で結ばれている。
大バイヨンヌ
グラン・バイヨンヌ。アドゥール川左岸のうち、ニーヴ川との合流点よりも下流側に位置する市の中心部。市庁舎やサント=マリー大聖堂、シャトー・ヴュ、市の観光案内所もある。
小バイヨンヌ
プチ・バイヨンヌ。アドゥール川左岸のうち、ニーヴ川との合流点の上流側である商業地域。バスク博物館、ボナ美術館、シャトー・ヌフなどがある。
サンテスプリ
アドゥール川右岸、北東側の区域。シタデルの南東にサンテスプリ(聖霊)教会やフランス国鉄のバイヨンヌ駅がある。

バイヨンヌは近郊の都市であるビアリッツ、アングレットとともにコミューン(自治体)連合を形成している。1972年からの交通インフラ整備を皮切りに、1999年からは ⇒バイヨンヌ=アングレット=ビアリッツ都市圏共同体(略称はB.A.B.)として地域経済の活性化や環境保護、高等教育の分野で地域協力を行なっている。

また、バイヨンヌからスペインのサン・セバスティアンまではユーロリージョンとして、国境を超えた自治体同士の連携がはかられている。
歴史

紀元前3世紀、ローマ人によって駐屯地(カストルム)が置かれ、ラプルドゥム(Lapurdum)と呼ばれた。この名は北バスク国の1地方名ラプルディ(ラブール)に今日も残っている。続いてヴァスコン人バスク人の祖先)がこの地を支配、彼らによってバイヨンヌと名付けられた。バイヨンヌという地名はバスク語で「川」を意味する語に由来する。

840年、現在のデンマークからヴァイキングがバイヨンヌに到達、その後も、9世紀から10世紀にかけてバイヨンヌはヴァイキングの侵攻を継続的に受けることになる。

アキテーヌ公領に吸収されていた1152年、女性領主であるアリエノール・ダキテーヌがのちのイングランド王ヘンリー2世と再婚したことにより、バイヨンヌは12世紀から15世紀にかけてイングランドの支配下に置かれた。この結果、スペイン国境に近い軍事的要衝でもあったことから、百年戦争以降、英仏間でバイヨンヌをめぐる争いが繰り返されることになる。そのため、武器生産もさかんとなり、銃剣はその地名にちなんで「バヨネット」と呼ばれた。

アドゥール川やバイヨンヌ港の整備が進むと、バイヨンヌ経済はタラ漁や捕鯨といった漁業およびその加工業で潤った。16世紀後半にはイベリア半島からユダヤ人たちがサンテスプリに移り住み、彼らがもたらした技術と知識によってバイヨンヌでチョコレートの生産が始まった。20世紀にフランコの独裁政権から庇護を求めてやって来たスペイン・バスクの人々は小バイヨンヌをその拠点とした。

1854年パリと鉄道で結ばれ、ビアリッツで休暇を過ごす人々の観光拠点となった。その後、経済は一時低迷したが、20世紀に近郊のラックに油田が発見され、石油関連産品や周辺地域の農作物などの輸送の要として活況を取り戻しつつある。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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