貯水量2.3 × 104 km3も世界最大[23][20]であり、世界中の凍っていない淡水の17%[23]-20[24]がここにあるとされる。水質も日本の摩周湖に代わり世界最高の透明度を誇る湖[25]であり、1996年に世界遺産に登録された[26]。セレンガ川、バルグジン川、上アンガラ川など336本の河川が流入するが[20]、流出する河川は南西端に近いアンガラ川のみである。そのため、水量が常に豊富である。湖には最大のオリホン島(面積730 km2、奄美大島に匹敵[27])を初め22の島々がある。
湖は北西にバイカル山脈、北東にバルグジン山脈、その他の山々に囲まれている。湖底にはオリホン島から続くアカデミシャンリッジ(湖嶺)と湖上に顔を出すウシュカニ諸島があり、これとセレンガ川デルタによって大きく3つの地質構造に区分される。それぞれ「北湖盆」、「中央湖盆」、「南湖盆」であり、このうち中央湖盆が最も深いが、北・南湖盆も1km前後の水深を持つ[18]。
バイカル湖および周辺の自然保護のためには、湖の西側に沿バイカル国立公園(南)、バイカロ・レンスキー自然保護区(中央、レナ川源流)、湖の東側にザバイカリスキー国立公園(南)、バルグジン自然保護区(中央)、湖の南側にバイカル自然保護区が設けられている。また、セレンガ川デルタはラムサール条約登録地である[28]。 世界で最も古くに誕生した[29]古代湖でもある[6][23][20](ザイサン湖は6000万年以上前に誕生したのではないかという説もある)。一般的な湖沼は流入し堆積する土砂
歴史
湖の周辺には古くからブリヤート人が居住している[34][35]。彼らは出土した弓の形式などからスキタイとの関係が示唆されていた[36]が、11-12世紀頃にはモンゴル族の影響を強く受け[37]、次第にモンゴル化されていった。バイカル湖のシャーマン岩(オリホン島)の頂には釜と五徳があり、これらはチンギス・カンに縁付くものという逸話も残されている[38]。
17世紀中頃、帝政ロシアがバイカル湖周辺へ進出し[39]、1628-1658年頃に周辺を支配下に置いた[40]。最初にバイカル湖に到達したロシア人は1643年のクーバット・イワノフ(英語版、ロシア語版)と言われる[41]。
シベリア鉄道は1904年に完成した。しかしバイカル湖周辺は敷設が難しい箇所が多かったため、開通時には一部の軌道を氷の上に敷いて間に合わせていた[42]。1920年1?2月には赤軍に追われた白軍とその家族らが大シベリア冬季行軍(英語版、ロシア語版)として知られるようになった逃避行で、凍結したバイカル湖を渡って逃げる際に厳寒の風に襲われてほぼ全員が亡くなり、春になって遺体はバイカル湖の湖底へと沈んだ。
1904年、日露戦争開戦時に戸水寛人は「七博士意見書」を提出し、ロシア帝国へ武力侵攻しバイカル湖以東の東シベリア占領を強硬に主張し、バイカル博士と渾名される。日露戦争末期の1905年にバイカル湖以東を日本に割譲することを講和条件とするよう主張する[43]。
1991年にソ連が崩壊し、また1997年に世界遺産へ登録されてからは、諸外国からも訪問が容易となった。特殊な生物層や景勝、またブリヤートなど多様な諸文化に触れることができるため、観光客も増加した[32]。湖および周辺には天然ガスなど豊富な地下資源があり、またブリヤート共和国の経済成長などを目指す開発が志向されているが、これらが及ぼす環境負荷の懸念も高い[32]。 バイカル湖は寒冷で栄養素に乏しいにもかかわらず[44]、世界屈指の生物多様性を持つ場所である[13]。チョウザメ、オームリ(バイカル・オームリ[4])や、サケ科などの魚類、バイカルアザラシ(サイマー湖、ラドガ湖のワモンアザラシは海水と淡水の両方に生息するため、淡水のみに生息する種としてはアザラシ科では唯一。
生態系
豊富な固有種