モンゴル高原では、元朝崩壊後もチンギス・ハーンの子孫でない者がハーン(カアン)の位に就くことはタブー視され、チンギス・ハーンの子孫ではない遊牧君主はたとえ実力でモンゴルを制覇したとしてもハーンとはなれない慣行が生まれた。詳細は「チンギス統原理」を参照
15世紀に、これを無視してハーンに即位したオイラトのエセンは、モンゴル高原をほぼ統一するほどの勢威を誇ったにもかかわらず、ハーン即位後すぐに内紛によって殺されてしまった。
チャガタイ・ハン国分裂後の中央アジア、ジョチ・ウルス分裂後のキプチャク草原でも同様の現象が起こったが、一方でモンゴル帝国の支配からは、やや離れたアナトリア半島では、早くからチンギス家の血を引かないオスマン家がハンの称号を帯びた例があり、イランやインドでは地方総督や小部族の首長などがハーンを名乗る慣行がモンゴル帝国の解体後再開している。さらに時代が下るとチンギス統原理も揺らぎ始め、ダライ・ラマの権威によりチンギス・ハーンの血を引かないジュンガルやマンギトなどの部族長がハーンを名乗った。
東アジアでは、17世紀初頭に女真出身のヌルハチが満洲(女真)のハンに即位して後金を建てていたが、後金はヌルハチの子ホンタイジの代でモンゴルのチンギス裔のハーンを服属させ、満洲だけではなくモンゴルに対してもハーンとして君臨することとなった。こうしてモンゴルのハーンとなった満洲のハンは、自らを元のハーン政権の後継王朝と位置付け、国号を清と改める。清の支配下では、ハーンは清朝皇帝の臣下である遊牧民の王侯が称する称号、爵位の一種としても使われた。
関連項目
ハトゥン
脚注^ 村上 1970,p7
^ 佐口 1968,p67
参考資料
村上正二(訳注) 『モンゴル秘史1 チンギス・カン物語』 (『東洋文庫』全3巻)、平凡社、1970年
C.M.ドーソン(佐口透訳注) 『モンゴル帝国史2』 (『東洋文庫』全6巻)、平凡社、1968年