1911年に改良されたVツインモデルが導入された。新型エンジンは機械式の吸入バルブを搭載し、エンジンの真空を利用して「自動的に」開閉する吸入バルブとは異なった。排気量は49.48立方インチ (811 cc)で、1911年のVツインエンジンは初期のVツインエンジンよりも小型であったが、より高性能になっていた。1913年以後、ハーレーダビッドソンが生産する大半のオートバイはV型2気筒エンジンツインモデルである。
1912年、ハーレーダビッドソンは特許を取得した「フルフローティングシート」を導入した。それはシートチューブの内側にコイルスプリングを装着し懸架するシートであった[17]。スプリングの張力はライダーの体重に合わせて調整することができた。3インチ (76 mm)以上が調整できた[18]。ハーレーダビッドソンはこの型のシートを1958年まで使用した[19]。
1913年までに黄色レンガの工場は取り壊された。そして同じ場所に新しい5階建ての建物が建設された。1910年に始められたジュノー通りの工場は多くの拡張が行われ、38番街の角までを占めるようになった。モーターサイクルレースにおいてハーレーダビッドソンはインディアンよりも進んでおり、1914年以降はレースを支配した。生産台数はその年16,284台に膨らんだ。自身のハーレーに跨がるラルフ・ヘプバーン、1919年撮影 1917年にアメリカ合衆国は第一次世界大戦に参戦した。そして、軍は戦争への協力としてオートバイを要求した[20]。ハーレーのオートバイはパンチョ・ビリャ遠征 ハーレーダビッドソンは顧客をオートバイに引き込むことを目的として、1917年に一連の自転車を発売した。伝統的なダイヤモンドフレームの男性用自転車の他に、女性向け「レディ・スタンダード」ステップスルーフレームの3-18や、少年向けの「ボーイスカウト」5-17がラインナップされた。自転車は思うような売り上げができず、1923年に製造販売が取りやめられた[注釈 2]。 ハーレーダビッドソン向けの自転車はオハイオ州デイトンでデイヴィス・マシン・カンパニーが1917年から21年まで製造した。デイヴィスは1921年に自転車の製造を取りやめた[24]。 1920年までにハーレーダビッドソンは28,189台を生産し、67カ国にディーラーを持つ世界最大のオートバイ・メーカーとなっていた[25]。 1921年、オットー・ウォーカーはハーレーダビッドソンで平均速度100 mph (160 km/h)以上でレースに優勝した[26][27]。 1920年代の間にいくつかの改善が行われた。1922年には74立方インチ (1,213 cc)の新型Vツインエンジンが導入され、1925年には「ティアドロップ」型の燃料タンクが導入された。1928年には特に J/JD だけではあるが、フロントブレーキが追加された[28]。 1929年の晩夏、ハーレーダビッドソンはインディアン・101スカウト
第一次世界大戦
自転車
1920年代ハーレーダビッドソン 1000cc HT 1923年
世界恐慌ハーレーダビッドソン 1933年 VC 1200cc サイドバルブ
ハーレーが45立方インチモデルを導入した数カ月後に世界恐慌が始まった。売上は1929年の21,000台から1933年には3,703台まで落ち込んだ。それにもかかわらず、ハーレーは1934年に向けての新たなラインナップを明らかにした。その中にはフラットヘッドエンジン搭載モデルや、アール・デコ調モデルが含まれた[32]。
恐慌の残りを耐えぬくために、同社はオートバイ用エンジンを元に産業用エンジンを生産した。彼らはまた、サービカーと呼ばれる配達用三輪車を設計・生産した。このモデルは1973年まで生産が続けられた[29]。陸王1200VFD 1950年ハーレーダビッドソン 1934年 VD(Yosei) VFD(Emperor) 1200tハーレーダビッドソン 1936年 E 1000cc 1937年 UL1200ccハーレーダビッドソン UL