ハーレーダビッドソン
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伝統的なダイヤモンドフレームの男性用自転車の他に、女性向け「レディ・スタンダード」ステップスルーフレームの3-18や、少年向けの「ボーイスカウト」5-17がラインナップされた。自転車は思うような売り上げができず、1923年に製造販売が取りやめられた[注釈 2]

ハーレーダビッドソン向けの自転車はオハイオ州デイトンでデイヴィス・マシン・カンパニーが1917年から21年まで製造した。デイヴィスは1921年に自転車の製造を取りやめた[24]
1920年代ハーレーダビッドソン 1000cc HT 1923年

1920年までにハーレーダビッドソンは28,189台を生産し、67カ国にディーラーを持つ世界最大のオートバイ・メーカーとなっていた[25]

1921年、オットー・ウォーカーはハーレーダビッドソンで平均速度100 mph (160 km/h)以上でレースに優勝した[26][27]

1920年代の間にいくつかの改善が行われた。1922年には74立方インチ (1,213 cc)の新型Vツインエンジンが導入され、1925年には「ティアドロップ」型の燃料タンクが導入された。1928年には特に J/JD だけではあるが、フロントブレーキが追加された[28]

1929年の晩夏、ハーレーダビッドソンはインディアン・101スカウトやエクセルシオール・スーパーXに対抗するため45立方インチ (737 cc)のフラットヘッド・Vツインエンジンを導入した[29]。この「D」モデルは1929年から31年まで生産された[30]。このモデルはジェネレーターが前部シリンダーと平行に装着されたため、インディアンのライダー達はこのモデルを「3気筒ハーレー」と嘲るように称した[31]。シリンダーは2.745 in (69.7 mm)のボアおよび3.8125 in (96.8 mm)のストロークで、このサイズは大半の750ccで続けられ、例外は XA および XR-750 程度であった。[要出典]
世界恐慌ハーレーダビッドソン 1933年 VC 1200cc サイドバルブ

ハーレーが45立方インチモデルを導入した数カ月後に世界恐慌が始まった。売上は1929年の21,000台から1933年には3,703台まで落ち込んだ。それにもかかわらず、ハーレーは1934年に向けての新たなラインナップを明らかにした。その中にはフラットヘッドエンジン搭載モデルや、アール・デコ調モデルが含まれた[32]

恐慌の残りを耐えぬくために、同社はオートバイ用エンジンを元に産業用エンジンを生産した。彼らはまた、サービカーと呼ばれる配達用三輪車を設計・生産した。このモデルは1973年まで生産が続けられた[29]陸王1200VFD 1950年ハーレーダビッドソン 1934年 VD(Yosei) VFD(Emperor) 1200tハーレーダビッドソン 1936年 E 1000cc 1937年 UL1200ccハーレーダビッドソン UL

1930年代中頃に、アルフレッド・リッチ・チャイルドは日本で74-立方インチ (1,210 cc)の VL の生産ラインを開いた。日本のライセンスホルダー、三共製薬は1936年にハーレーとのビジネス関係を断ち切り、「陸王」のブランドネームで VL タイプの生産を継続した[33]。詳細は「陸王 (オートバイ)」を参照テキサス州のハーレーダビッドソン・ディーラー、1930年?1945年頃

80-立方インチ (1,300 cc)のフラットヘッドエンジンは1935年にラインナップに加えられた。その頃までに単気筒エンジンモデルは生産が停止された[34]

1936年、「ナックルヘッド」OHVエンジンを搭載した 61E と 61EL モデルが導入された[35]。初期のナックルヘッドエンジンはバルブトレインの問題のため再設計の必要が生じ、生産初年度後半に生産されたエンジンには改良された新バルブトレインが装着された[36]

1937年までに、すべてのハーレーダビッドソンのフラットヘッドエンジンは「ナックルヘッド」OHVエンジンに導入されたものと同様のドライサンプ式オイル再循環システムが装備されていた。修正された74-立方インチ (1,210 cc)の V と VL は U と UL に、80-立方インチ (1,300 cc)の VH と VLH は UH と ULH に、45-立方インチ (740 cc)の R は W にリネームされた[35]

1941年、74-立方インチ (1,210 cc)の「ナックルヘッド」は F と FL として紹介された。80-立方インチ (1,300 cc)のフラットヘッド UH と ULH は1941年以降製造が中止され、一方 74 U と UL フラットヘッドモデルは1948年まで生産された[35]
第二次世界大戦ハーレーはBMW・R71をコピーし、XAを生産した。

ハーレーダビッドソンは世界恐慌を耐え抜いた2社のうちの一つであり[7][37]第二次世界大戦中は再びアメリカ陸軍向けの多数のオートバイを生産、その後民生用車種の生産も再開した。導入した大型Vツインオートバイのシリーズはレースコース及び一般市場の両方で成功を収めた。

ハーレーダビッドソンは第二次世界大戦が始まる前からすでに陸軍に対して軍用バージョンの45立方インチ (740 cc) WL シリーズを供給しており、それらはWLAと呼ばれた。「A」はこの場合「陸軍 (ARMY)」を表した。戦争が始まるとハーレーは多くの製造業の会社同様に、軍用物資の生産にシフトした。90,000台以上の軍用オートバイ(大半はWLAとWLC(「C」はカナダ軍向け))を生産し、連合国に提供された[38]。ハーレーは2つのArmy-Navy "E" Awardを受賞、1つは1943年、もう1つは1945年のことであり、それは生産における優秀さに対して授与された。ハーレーはカナダ軍向けにWLCを生産した。

レンドリース法よって少なくとも30,000台以上のオートバイがソビエト連邦に送られた[39]。4年間の戦争期間中に生産されたWLAは、1942のシリアル番号を有する。第二次世界大戦が終了するとWLAの生産は終了したが、その後1950年から52年まで朝鮮戦争で使用するために生産が再開された。

アメリカ陸軍もハーレーダビッドソンに対して、BMWのサイドバルブとシャフトドライブという特徴を持つ R71 の設計を取り入れたオートバイの生産を依頼した。ハーレーは主にBMWエンジンとドライブトレーンをコピーし、750ccでシャフトドライブのハーレーダビッドソン・XAを開発した。このエンジンはハーレーが今まで生産していたエンジンとはサイドバルブ以外は形状、部品およびデザインコンセプトで共通する点は無かった。フラットツインエンジンはフレーム全体でシリンダーを冷却するため、XA のシリンダーヘッドはVツインよりも56度も低かった[40]。XA は、フル生産されることはなかった。軍の多目的車両として、オートバイはジープの影に隠れていた。そして、既に生産されていた WLA は、警察、護衛、伝令と言った限られた役割において十分であった。XA は1,000台が生産されたのみで、これはハーレー唯一のシャフトドライブモデルである。
小型車:ハマーとアエルマッキハーレーダビッドソン・ハマー「ハーレーダビッドソン・ハマー」および「ハーレーダビッドソン・トッパー」も参照

戦争賠償の一部として、ハーレーダビッドソンはドイツの小型オートバイ(DKW・RT125)のデザインを取得した。それはアメリカ向けに適応され、1948年から66年まで製造販売された[41]。様々なモデルが製造され、その中には1955年から59年まで製造されたハマーも含まれた。しかし現在ではその全てのモデルが「ハマー」と呼ばれている[42]イギリスBSAも同じデザインを取得し、それはBSA・バンタムの基礎となった[43]


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