ハーラル3世_(ノルウェー王)
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大公の妃である インゲゲルド(英語版)がハーラルの縁戚であったからだとされている[2][3]。ヤロスラフ大公は当時、軍事指揮官をひどく欲していたために、亡命してきたハーラル3世に軍事的才能があることを見抜いた大公はハーラルに自らの軍団の指揮官に任じた[4] 。この大抜擢は、ハーラルがキエフ大公国に亡命する前からキエフに亡命していた[5]元ノルウェーの統治者オーラヴ2世がハーラルの兄弟であったからだと言われている[6]。ヤロスラフ大公の軍勢の指揮官となったハーラル3世は、1031年にはポーランド人に対する遠征に参加した。また、1030年代には、エストニアに勢力を張るチュヂ族ビザンツ帝国ペチェネグ人や他の遊牧民族といったキエフ大公国の宿敵に対する遠征にも参加していた可能性もある[7]



ビザンツ帝国での活躍

キエフ公国で数年間過ごしたのち、1033年、若しくは1034年、ハーラルと彼に従う500人の従士たち[8]ビザンツ帝国の帝都コンスタンティノープルに向かい[9]、そこでヴァラング親衛隊(英語版)としてビザンツ皇帝に仕えた。中世アイルランドの写本の中で最も重要とされているフラート島本によると、ハーラルは当初、ノルウェー王という自身の高位な身分を隠そうとしていたとされているが、他の多くの歴史的文献によれば、ハーラルと彼の従士たちの名声はこの時すでにビザンツ帝国にも伝わっていたという。そんなハーラルが属したヴァラング親衛隊とは元々は皇帝の身辺警護を任務とする部隊であったが、ハーラルは帝国のほぼ全ての辺境地域で戦闘任務についていたことが分かっている[10] 。ハーラルが最初に就いた任務は地中海におけるアラブ人海賊の討伐と、アラブ人海賊を支援していたアナトリア地方内陸部の諸都市征伐であった。当時のアイルランドの歴史家スノッリ・ストゥルルソンによると、この頃にはハーラルはヴァラング親衛隊の全部隊を率いる指揮官に任じられていたという。1035年までにビザンツ帝国はアラブ人勢力をアナトリア地方から東部・南東部へ駆逐し、ハーラルもそのアラブ人駆逐任務の一部に参加して、メソポタミア地方、チグリス川ユーフラテス川まで遠征した。ハーラルに仕えたスカルド詩人ショーゾルヴ・アルノールソン(英語版)(サガに詳細に記されている)によれば、ハーラルはメソポタミアの地で80ものアラブ人の砦の攻略に参加した。現代の歴史家であるSigfus BlondalやBenedikt Benedikzらによると、この数に関してはなんら疑いの余地はないとされる。サガが示唆するようにハーラルは独立した軍隊の指揮官ではなかったが、ハーラル王とヴァラング隊が城や町を占領するために派遣されていた可能性は少なくない[11][12]。ビザンツ皇帝ミカエル4世の治世下において、ハーラルはペチェネグ人との戦役にも従事していたかもしない[13]ビザンツ帝国のヴァラング親衛隊を描いた挿絵。ヨハネス・スキュリツェスがほぼ同時代に著した歴史書に描かれている。

その後、ハーラルはイェルサレムに向かいその地で戦闘を行ったとサガに伝えられている。サガはこの出来事を彼がシチリア遠征に参加した後に行われた出来事としているが、現代の歴史家Kelly DeVriesは示された時期について疑問を呈している[14]。近代歴史家たちは、ハーラルが遠征の一環としてイェルサレムに向かったのではなく、ビザンツ皇族を含む聖地巡礼者を保護するための一団にハーラルが加わっていたのではないかと推測している。というのも帝国とファーティマ朝との間で締結された平和条約はビザンツ帝国の民が聖墳墓教会の修復に携わるのを認める合意でもあったからだ。それゆえこの一団に同行したハーラルには、聖地に向かうキリスト教徒を襲撃する盗賊と戦う機会あったのかもしれない[15][16]


1038年、ハーラルはビザンツ帝国のシチリア島遠征に参加した[17][18] 。この遠征はビザンツ帝国の将軍ゲオルギオス・マニアケス(英語版)の試みであり、サラセン人に長年奪われていたシチリア島を奪還するのが目的であった。この遠征中、ハーラルは当時南イタリアで活躍していた鉄の腕ウィリアム(英語版)などといったノルマン人傭兵たちと共に戦った[17]。当時の歴史家ストゥルルソンによれば、ハーラルはシチリア島で4つの町を占領したという[18]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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