ハーメルン
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イギリス王にしてハノーファー選帝侯ジョージ2世1760年に亡くなった後、後継者のジョージ3世七年戦争の間(1756年 - 1763年)もクリュート山に砦を築くことでハーメルン要塞の強化を続けた。第一砦(ゲオルク砦)は1760年から1763年に建設された。1774年から1784年にはさらに2つの砦がクリュート山に建設された。第二砦(ヴィルヘルム砦)と第三砦である。これによりハーメルンは、当時のハノーファー選帝侯領最強の要塞都市となり、難攻不落の「北のジブラルタル」とされた。ナポレオン時代のフランス支配とプロイセン支配下が入れ替わる1806年、クリュート山の麓に第四砦(ルイーゼ砦)が造られた。

イエナ・アウエルシュタットの戦いの後、ル・コック将軍が率いるハーメルンは1806年にサヴァリー将軍指揮下のフランス軍に、戦うことなく降伏した。1808年にナポレオンによって行われた要塞の取り壊しにより、2つの塔を含む旧防衛施設が建っていた場所は、この街のさらなる発展の余地となった。旧ゲオルク砦の石材で1843年に初めはゲオルク塔と呼ばれた展望塔が建設された。この塔は1887年に増築され、現在はクリュート塔として人気の行楽地となっている。
郡独立市/郡庁所在地

1886年、ハーメルンは700年におよぶヴェルフェン家の支配からプロイセン支配下に移され、1923年に郡独立市となった。1972年から1973年の行政改革・地域再編によって郡独立市の地位は撤回された。ハーメルンは1885年からハーメルン=ピルモント郡の郡長所在都市である。

1872年にハノーファー=アルテンベーケナー鉄道会社により、鉄道ハノーファー - アルテンベーケン線が開通し、1875年にはヒルデスハイムおよびレーネへの路線(ヴェーザー鉄道)も利用できるようになった。1889年から1897年までの間、ヴェーザー橋やクリュート・トンネルを伴うハーメルン - ラーゲ線(ベーガタール鉄道)の工事が行われた[5]

1897年4月1日にハノーファー第4歩兵隊第164連隊がハーメルンに配備された。この連隊は1914年から第一次世界大戦ベルギーやフランスを転戦した。1918年までにこの連隊の兵士2,423人が死亡した。1925年8月23日、164リング(通りの名前)沿いに連隊戦死者の記念碑が建立された。
初期自動車産業ハーメルンの自動車産業記念碑

1907年にハンス・ハルトマンによって、駅の南の工業地域に北ドイツ自動車工業 (Norddeutsche Automobilwerke (N.A.W.)) が設立された[6]。この工場は1908年にミドルクラスの自家用車 Colibri の生産を開始した。1911年からは Sperber というモデルが加わった。これはロシアバルト諸国スカンジナヴィア諸国、オーストリアイギリス、さらには海を渡って南アフリカニュージーランドなど多くの国に輸出された。

第一次世界大戦で生産は停止され、貨物自動車などの軍需製品だけを生産するようになった。1917年ザウアーラント地方に本社を置く Selve社がN.A.W.を買収したが、1929年世界恐慌により生産を中止した。国家社会主義の時代が始まると工場は再開され、ドイツ自動車工業AG (Deutsche Automobilwerke AG (DAWAG))として活動を続けた。ここで設計者のロベルト・メーデラーは新型エンジンを搭載した自動車を設計した。この自動車は2,300ライヒスマルクという価格で、高額過ぎた。このため自動車産業を構築するための大口注文をヴォルフスブルクに逃した。ヴォルフスブルクではわずか990ライヒスマルクのKdFワーゲンを製造するためのフォルクスワーゲンの工場建設が計画されていたのである。こうしてハーメルンの自動車産業は潰えた。
国家社会主義の時代

ハーメルン近郊のビュッケベルクで1933年から1937年まで定期的に帝国収穫祭が開催されていた。これはドイツ全土から100万人の参加者を集める最大の国家社会主義者の民衆集会の一つであった。この集会にはアドルフ・ヒトラーヨーゼフ・ゲッベルスやその他の指導者も参加した。
第二次世界大戦と占領下の時代

第二次世界大戦末期、1945年3月14日にハーメルンは連合国軍の空爆目標となった。これにより、駅やクロイツ通り、ハステンベッカー・ヴェク、シュテューフェ通りの家屋が破壊された。177人が死亡、93人が負傷、700人以上が家を失った。

1945年4月5日、アメリカ軍第2機甲師団がグロース=ベルケルに至り、小部隊がハーメルンへ進出してきたため、ドイツ軍はヴェーザー川の橋を爆破した。市内には防衛司令官クロッケンブリンク少将が指揮する約500人からなる防衛部隊がいた。アメリカ軍からの砲撃が開始されるとマルクト教会、ヴェルデミューレ、市庁舎やオスター通りなど多くの家屋が破壊された。アメリカ軍のリーランド・ホッブス少将指揮下の第17工兵大隊と第30歩兵師団の一部がオール村近郊で浮き橋を使ってテュンダーン方面へ戦車を渡河させたが、ゼンネ演習場に駐屯していたドイツ軍士官候補生達が市内南部でアメリカ軍の前進を停止させ、戦車2両を撃破した。4月6日、アメリカ軍第30歩兵師団のレイモンド・O・ボードイン中尉がドイツ軍の機関銃陣地を攻略する際に戦死したが、その功績により名誉勲章を受章した。4月7日、テュンダーン方面からイギリス軍第117連隊が進出して市内を占領、残っていたドイツ軍は降伏した。

1945年6月4日、軍事政府はヴァルター・ハルム (SPD) をハーメルン市の上級市長に指名した。彼は1933年以前に副市長として公職を務めていたのだが、ナチスによって追放されていた人物であった。1945年12月1日からゲオルク・ヴィルケが市主事の職に就いた。1900年頃のハーメルン刑務所

ハーメルン刑務所には、1933年以降主に共産主義者社会民主主義者といったいわゆる政治犯(およびホモセクシャルユダヤ人)が収監されていた。後にはフランスやデンマークの政治犯もこれに加えられた。劣悪な環境と非人道的な虐待行為により約300人が死亡した。1945年4月には連合国軍の接近に伴って刑務所の一部が撤収したため、多くの政治犯が死の行進によって亡くなった。

同地を占領したイギリス軍は、1945年12月3日から1949年まで刑務所をナチス戦犯の刑場として利用した。ベルゲン=ベルゼン裁判の被告人を含む156人が戦争犯罪により有罪とされて処刑された。中には収容所長のヨーゼフ・クラーマー、副所長のフランツ・ヘスラー、収容所付医師のフリッツ・クライン、女性看守のイルマ・グレーゼ、そのほか強制収容所の医師、カポ(監視役の囚人)、SS警備兵、第2SS装甲師団の将校などが含まれる。また、映画「大脱走」のモデルとなったドイツ空軍の捕虜収容所から脱走した連合国軍捕虜50人を虐殺したゲシュタポ将校も処刑された。

1946年に戦後初の市議会議員選挙が行われた。当時の市議会は30議席で、SPD 18議席、NLP (Niedersachsischen Landespartei) 9議席、CDU 2議席、FDP 1議席であった。上級市長にはハインリヒ・レフラー (SPD) が選出された。
1948年以降のハーメルン

冷戦の時代、ハーメルンにはイギリス陸軍ライン軍団の大規模な基地があった。1971年以降は、846人の兵士と500人の文民からなるイギリス軍第28工兵連隊が1938年に建設されたリンジンゲン兵舎に配備され、その家族の約1400人がこの街で暮らしていた。さらに2001年までイギリス人部隊が1898年に建設されたシャルンホルスト兵舎に配備されていた。

2004年12月31日にニーダーザクセン州の行政管区が廃止されるまでハーメルンはハノーファー行政管区に属していた。
宗教

ハーメルンは宗教改革がなされた都市である。住民の50%がプロテスタントルター派であり、13%がカトリック、37%がその他の宗教グループ(正教ムスリムユダヤ教、無宗教など)に属す。
行政
議会

ハーメルンの市議会は43議席からなる。
首長

1945年から1999年までの「市長」(Burgermeister) は市議会議員の互選で選出される名誉職であり、市行政の実務上の指導者は市民の直接選挙で選出される市主事 (Stadtdirektor) であった。


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