ハーフェズ
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伝統的に、ハーフェズの生涯を再構成する際に根拠とされてきた情報源は、詩人の作品それ自体である[3]。文献学上は、これに加えて「ゴルアンダーム序文」(後述)が比較的重視される[3]

詩人の近親者については、父親の名前を「エスファハーン出身のバハーオッディーン」(Bah??-al-Din from Esfah?n)と伝える写本と、「トゥーイーセルカーン(英語版)出身のキャマーロッディーン」(Kam?l-al-Din from Tuyserk?n)と伝える写本があるが、どちらも信頼性が低い[3]。また、ハーフェズには少なくとも1人の息子がいたようである[3]。ただしその根拠は作品の中だけにしかない[3][注釈 2]

詩人の生年については諸説あり、伝統的には1326年とされるが[6]、ハーフェズ研究で名高い[2]ガーセム・ガニー(ペルシア語版)は1317年説、代表的なペルシア語ペルシア文化研究者モハンマド・モイーン(英語版)は1315年説を採る[3]。岡田(1997)は1317, 1320, 1326年説を列挙[2]、佐々木(2005)は1326年説を紹介している[4]。没年は1390年ごろとされる[2][3][4]

ハーフェズは、シーラーズに生まれ、同地で亡くなった[3]。サアディーが青年期にシーラーズを出て諸国を遊学したのと対照的に、ハーフェズはシーラーズの町を愛し、生涯ほとんどこの町を離れることがなかった[6]。イスラーム世界の歴史の中でハーフェズが生きた時代は、モンゴルの侵入とティムール朝の侵入のはざまの時代であって政治的に不安定な時代であったが、文化的には実りの多い時代であった[3]。この時代にはハーフェズのほかにもイブン・ハルドゥーンが重要な著作を著述している[3]。イランにおいては、各地に凄絶な破壊をもたらしたモンゴルの襲撃後100年近くが経過し、イルハン朝のモンゴル系の支配者も、フレグ以来9代を数え、完全にペルシア化、イスラーム化していた[4]

ハーフェズはイルハン朝最後の君主アブー・サイード・バハードゥルの治世(1316年-1335年)に生まれた[4]。アブー・サイードの死後は各地に地方政権が分立する時代になるが、シーラーズは支配者が何度も入れ替わった[4]。ハーフェズ作品には頌詩的内容の詩句を含むものがあるが、その人徳を称揚される対象となる対象者は、当時の政治的不安定さを反映して、インジュー朝のジャラーロッディーン・マスウードシャー、アブー・エスハーグ、モザッファル朝のモバーレゾッディーン・モハンマド、ジャラールッディーン・シャーショジャー、さらにジャライル朝の君主とさまざまな支配者が登場する[3]。このうち、ハーフェズにとって最も重要だったと思われる人物は、シャーショジャーであり、ガニーによると頌詩的内容の詩句を含むカスィーダやガザル70編のうち、39編がシャーショジャーをたたえる対象である[3]
作品「ガザル」も参照

ハーフェズの名は、「ガザル」と呼ばれる形式の抒情詩でよく知られる[8][7]。そのほかには、学究的な散文作品もあり[7]、「サーキーナーマ」と呼ばれるジャンルの飲酒詩もイランの古典音楽(ペルシアの伝統音楽)(英語版)にとっては重要であるが、抒情詩ガザルこそがハーフェズ文学の中核であると考えられている[8]

ガザル詩形自体はハーフェズが発明した詩形ではなく、数百年前からアラビア語詩の世界で詠まれてきたものである[9]。一般的にガザルは「愛」をうたうものである[9]


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