ハーバート・ヘンリー・アスキス
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ペイズリー選挙区(英語版)[3]
在任期間1886年7月1日 - 1918年12月14日[3]
1920年2月12日 - 1924年10月29日[3]
その他の職歴
貴族院議員
1925年 - 1928年2月15日[3]
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初代オックスフォード=アスキス伯爵ハーバート・ヘンリー・アスキス(Herbert Henry Asquith [?askw?θ][4], 1st Earl of Oxford and Asquith, KG, PC, KC、1852年9月12日 - 1928年2月15日)は、イギリス政治家貴族

ヘンリー・キャンベル=バナマンの引退後、代わって自由党党首兼首相となった(在職1908年 - 1916年)。さまざまな内政改革を行いつつ、外交では自由帝国主義者として海軍増強に力を入れ、ドイツ帝国との建艦競争を行い、最終的には第一次世界大戦を招いた。

子に映画監督のアンソニー・アスキス、曾孫に女優のヘレナ・ボナム=カーターがいる。
概説

1852年生まれ。幼い頃に父を亡くし、いろいろな家を転々とする半孤児的な少年時代を送る。学業優秀だったため、奨学金を得てオックスフォード大学ベリオール・カレッジに入学。

大学卒業後、弁護士となる。1886年の総選挙に自由党候補として出馬して初当選する。自由党内ではローズベリー伯爵の自由帝国主義派の派閥に属した。1889年にアイルランド国民党(英語版)党首パーネルの冤罪を晴らしたことで政治家、弁護士として名をあげる。

1892年発足の第4次グラッドストン内閣に内務大臣として入閣。続くローズベリー伯爵内閣でも留任した。1895年から1905年までの自由党野党時代にはジョゼフ・チェンバレンの保護貿易論を批判する運動で活躍し、後に自由党党首となりうる声望を得た。1905年に発足した自由党政権ヘンリー・キャンベル=バナマン内閣に大蔵大臣として入閣した。

キャンベル=バナマンの政界引退で1908年に後継の首相に就任した。急進派閣僚デビッド・ロイド・ジョージウィンストン・チャーチルの補佐を受けて、多くの内政改革を行った。1908年には70歳以上の高齢者に年金を支給する老齢年金法を制定、1910年には富裕層に重い税負担をさせる税制改正を含む「人民予算」を可決させた。1911年には貴族院の拒否権を制限し、庶民院の優越を確立した議会法を制定した。さらに同年、国民保険法を制定して、国民健康保険制度と失業保険制度を定め、福祉国家への第一歩を踏み出した。

このうち人民予算と議会法をめぐっては貴族院と鋭く対立することになり、1910年中に2度解散総選挙が行われる事態を招いた。2回とも自由党は単独で過半数を得ることが出来ず、内閣は労働党とアイルランド国民党の閣外協力を基盤とするようになった。

外交面では自由帝国主義外交を行い、海軍増強に力を入れ、大英帝国の植民地支配を脅かすドイツ帝国建艦競争を行った。ドイツとの緊張は高まっていき、最終的に1914年第一次世界大戦を招いた。

1914年8月4日、ドイツ軍が中立国ベルギーへ侵攻したことを理由にドイツに宣戦布告した。しかし戦況が消耗戦の様相を呈してくる中、アスキス内閣は求心力を落としていき、1915年5月には一度総辞職に追い込まれた。この政治危機は保守党大連立を組んで挙国一致内閣を成立させることで乗り切ったものの、戦況の泥沼化は続き、1916年1月には兵員の枯渇で徴兵制を導入した。同年12月にアスキスの総力戦体制構築を手ぬるいと感じていたロイド・ジョージや保守党の閣僚たちにより首相職から引きずり降ろされ、代わってロイド・ジョージが首相となった。

以降自由党はロイド・ジョージ派とアスキス派に分裂した。一次大戦後も両派の対立は続いたが、自由党そのものが労働党の後塵を拝む第三党に衰退していく危機感の中で、1923年末に両派はアスキスのもとに再統一された。直後に臨んだ1924年1月の総選挙でも自由党はやはり第三党だったが、保守党も労働党も過半数を取ることができなかったため、アスキスの自由党がキャスティング・ボートを握ることになり、第1次ラムゼイ・マクドナルド内閣(初の労働党政権)の成立に大きな貢献を果たすことになった。

1925年オックスフォード=アスキス伯爵の爵位を与えられるも、1926年に政界引退し、1928年には死去した。
生涯
生い立ち

1852年9月12日ウェスト・ヨークシャーのモーリー(英語版)で生まれる[5]

父は羊毛業者のジョゼフ。母はその妻エミリー。兄にウィリアム、妹にエベリンがいる[5]1860年に父が死んだため、母の実家に身を寄せた。兄とともにリーズ郊外のフルネックにあるモラヴィア兄弟団系の寄宿学校に入学する[6]

1862年には祖父の死で母が実家を出ることになり、アスキスと兄はロンドンの伯父に引き取られたが、伯父の引っ越しに伴いイズリントンの医者のところへ預けられ、シティ・オブ・ロンドン・スクール(英語版)に入学した[6]

古典で優秀な成績を残したため、古典奨学金を獲得でき、オックスフォード大学ベリオール・カレッジに入学できた[7]。大学では常に首席の成績であった。学生クラブ活動にも熱心だった[7]
弁護士

1875年に大学を卒業した後、ロンドンに上京。リンカーン法曹院で学びつつ、オックスフォード大学の先輩である弁護士チャールズ・ボウエン(英語版)の助手を務めた。ボウエンからコモン・ローについて教えを受けた[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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