入浴客の性別の区分としては、男女別々の浴場を建設するか、性別ごとに時間帯や曜日を分けて営業することで対応している[20]。女性用のハンマームでは、浴場内で行われるあかすり、マッサージは全てが女性の係によって行われる[6]。13世紀にルーム・セルジューク朝のもとで建設されたハンマームには、日本の銭湯と同様に一つの浴場が男湯と女湯に分けられているものも存在していた[21]。また、女性を親族以外の男性の視線から隠すイスラームの習慣のため、女性用の浴場の入り口は外から目につきにくい場所に設けられている[22]。
歴史的には、特に男性社会から隔離され、自由に外出することを制限されてきた女性たちにとっては、素顔をさらして集うことができ、女性同士でくつろいで会話を楽しむことのできるハンマームは貴重な社交と情報収集の場だった。母親が息子に相応しい嫁を探すというような実用的な機能や、結婚式前の女性が親族の女性に囲まれて身づくろいしたりする儀礼的な機能も有していた[9]。女湯は概して騒がしい場所と考えられており、イランやレバノンでは女湯のうるささを揶揄した慣用句が用いられている[23][20]。
中東の都市を訪れた西欧の旅行者たちの書き残した記録には、富裕な階層から庶民に至るまで様々な出自の女性たちが、ベールで顔を隠してハンマームに赴く様がしばしば奇異と驚きの目をもって描写されている。 イランでは、一般的に公衆浴場を指す言葉として「ギャルマーベ」(熱い水)という言葉が使用されており、「ハンマーム」は個人の住居に付随する浴室を指して使われることが多い[24]。11世紀にズィヤール朝の君主カイ=カーウースが著した教訓書『カーブースの書』には、すでに入浴の作法が記されていた[25][26]。ズィヤール朝以降のペルシア文学作品、イランを訪問した外国人の旅行記にも、たびたびギャルマーベが登場した。 モスクやマドラセと同様に、ギャルマーベにもペルシャ式の建築様式独特のアーチとドームが見られ、壁面がタイルで装飾されている[27]。(サファヴィー建築も参照)上下水道と都市ガスの整備が進む現在のイランでは多くの個人の住居に浴室が設置され、テヘランなどの都市からギャルマーベの姿は消えつつある[28]。 近代以前のイランの公衆浴場はエジプトやトルコなどの他地域と異なり、浴槽(ハズィーネ)の衛生状態が極めて悪かった[29]。17世紀後半にサファヴィー朝を訪れたフランス人商人ジャン・シャルダンはイスファハーンの汚染された浴槽について書き記し、近現代のイランの文学作品やエッセイにも汚れた浴槽についての言及が見られる[30]。衛生面での問題からギャルマーベから浴槽は撤去され[31]、一般的なギャルマーベは脱衣室と蒸し風呂の二部屋で構成されている[32]。ギャルマーベとは別に「オルキーデ」(ラン)という公衆浴場が経営されており、サウナのほかに冷水プール、ジャグジー、シャワー室、バーベル、屋外の温水プールが併設されている[33]。 17世紀のロンドンには、すでに「ハンマーム」の名前を冠した浴場が建てられていた[34]。18世紀末までにロンドンに30ほどの「トルコ」式浴場が建てられたが、その多くで売春のサービスが行われていたと考えられており、この種の「トルコ風呂」が「ハンマーム」に対する歪んだ偏見を植え付けた[35]。19世紀の画家ドミニク・アングルはメアリー・ウォートレー・モンタギュー夫人が残した女性用のハンマームの見聞録に触発され、ヨーロッパ人の男性が抱くイメージと欲望が反映された『トルコ風呂』を描いた[36]。 一方で、19世紀末のヨーロッパには健全なイスラーム風の浴場も登場する[37]。1867年のパリ万国博覧会、1873年のウィーン万国博覧会では、オスマン帝国の会場にトルコ風の浴場が設置された[38]。 アメリカで「ターキッシュ・バス(Turkish Bath)」と呼ばれていた施設が、日本では「トルコ風呂」と訳されて紹介された[2]。 日本で初めてハンマームに触れたのは幕末から明治時代にかけてヨーロッパを訪問した使節団や留学生であり、彼らは道中でエジプトやイスタンブールのハンマームを利用した[39]。横浜鎖港談判使節団に随行した岩松太郎、海外視察中にイスタンブールに立ち寄った谷干城らが、ハンマームの体験記を書き残した。
イランのギャルマーベ
西欧でのイメージアングルの『トルコ風呂』
日本における「トルコ風呂」「トルコ風呂 (性風俗)」も参照