14世紀、北海での海賊との戦闘において名声を挙げ、ハンザ同盟の同盟結成当初からのメンバーとして北海とバルト海地域の間の最重要積み替え地となった[17]。1400年頃、市の人口は約8000人であったが[9]、1430年頃には約16000人になっている[17]。1510年頃にはじめて出版されたドイツの民衆本『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』の第74話は、主人公が、理髪店に雇われたものの例によっていたずらをしたせいで店から追い出される笑話だが、その町が当地とされている[18]。
ジギスムント( 神聖ローマ皇帝)の治下、市は初めて「帝国直属」(reichsunmittelbar)とされ、1510年のアウクスブルク帝国会議において「ニーダーザクセン帝国クライスの帝国都市」(Reichsstadt im niedersachsischen Reichskreis)とされ、1618年には帝室裁判所(Reichskammergericht)もハンブルクの独立を確認している[17]。
1529年には宗教改革をうけいれ、ルター派やカルバン派の避難場所となった。
1558年、アントウェルペン取引所にならってハンブルク証券取引所(ドイツ語版)が設立され、そこでは植民地生産物だけでなく証券・保険に関する取引も集中処理された[19]。
その後、三十年戦争によりハンブルクの商業は大打撃をこうむった。もっとも、市域は強固な防御施設に守られ、戦争の被害は被らなかった[17]。しかし、フランスでフォンテーヌブローの勅令が出て逃げてきたユグノーが、当時において先進的な工業技術と潤沢な資金により復興させた。
近世
1709年からアメリカへの移住が始まった。
1720年、ユグノーに厚いプロイセン王国がオランダへ黄金海岸を売却した。このころよりサンクトペテルブルクの開発が進み、それに呼応してロシア帝国に干渉しオスマン帝国を攻撃するための、政治・経済・軍事拠点としてハンブルクは活躍するようになった。
1810年、ハンブルクはナポレオン1世の軍隊に占領された。しかし、ナポレオンの没落後ふたたび自由都市となり、1815年にドイツ連邦に加盟した。このころにスペイン・ポルトガルから独立していたラテンアメリカ諸国が欧州との貿易を望み、ハンブルクは旧来の取引関係をさらに拡充する機会として積極的に応じた。
1842年に4日間にわたる火災で市街地は被害をうけた(ハンブルク大火)。
近代
1871年のドイツ帝国成立の際、ハンブルクはどこの州にも属さず独立を維持した。
1892年にはコレラの流行で8605人もの死者が出た。このときプロイセン王国に属するアルトナ市は、市街地をハンブルクに隣接させていたが、水道を濾過する設備を整えており、コレラの侵入を全く阻んで瘴気説の終焉をもたらした[20]。
近現代
1918年11月のハンブルクの人民蜂起はドイツ帝国崩壊の先触れとなり、短期間ではあるが、社会主義のレーテ共和国が樹立された。
第二次世界大戦では潜水艦基地がおかれ[注釈 1]、連合国軍のハンブルク空襲により多くの市民が命を奪われた。1946年、マックス・ブラウアー(英語版)が戦後初の市長となった。1949年にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立し、ドイツ通信社が発足した。
現代
2007年10日、ハンブルク市内でドイツ社会民主党(SPD)全国大会が開かれ、ベルリン綱領(1989年)に代わる党綱領「ハンブルク綱領」を採択した。
2017年7月7日-8日、ハンブルク市内で第12回G20首脳会議が行われた。
会議に合わせて7月6日より市内で大規模デモ行進が行われ少なくとも1万3,000人が参加。一部は暴徒化し、警官75人が負傷した[21]。 国別の海外出身者の人口[22]
人口統計