ハンブルク
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参事会会員は世襲の都市貴族に限られなかったので、社会的上下間の流動性が見られた[12]

また、関税特権、経済特権を獲得したことで交易都市としての発展が進み、1241年にリューベックと、1249年にブレーメンと防衛同盟をむすんだ。同年、シャウエンブルク伯爵より完全な自治を許され、貨幣製造権も与えられる。このことがやがてハンザ同盟の成立へとつながっていく。たかだか同盟のビール生産地にすぎなかったハンブルクは、リューベックが衰えるのと反対に繁栄し富裕な有力都市のひとつとなった。

14世紀以降、北オランダと北ドイツの諸都市では市場向けビールが大量に生産されたが、その「代表は北ドイツのハンブルクだった。1376年にハンブルクで営業していた商工業者1075名のうち、ビール醸造職人は実に456名を占め、1369年のハンブルクのビール総生産高は17万樽に上った。1411年ブリュージュの課税記録によれば、オランダ産のビールと蜂蜜酒5500樽に対して、ハンブルク産のビールは5万1000樽の多きに及んでいる」[13]

1376年、ハンブルクのビール醸造職人数は上記のとおりであるが、他の職種について言えば、178人が独立遠隔地商人(84人のフランドル渡航者+35人のイングランド渡航者+40人のリューベック渡航者)、19人が織物商、31人が小売商(21人の雑貨商+10人の行商人)、残りが各種手工業者(鋳物工、金細工師、皮なめし工など)であった[14]。なお、当市での手工業者組合の結成は早く、1152年ハインリヒ獅子公により生地屋に対してその許可が与えられている[15]。ハンブルクには、異なった職業を営む者が構成する兄弟団もあった。大聖堂の聖母マリア兄弟団は漁師、小売商、行商人によって構成され、仕事上の関係だけでなく聖ヨブ病院を維持することも兄弟団の目的であったし、ハルフェステフェーデにある修道院のヨハネス兄弟団には、仕立て屋、桶屋、屠殺人のほか、市参事会員などの商人層も多く加わっており、その目的は同地の修道女の生活に必要な物資を届けることであった[16]

14世紀北海での海賊との戦闘において名声を挙げ、ハンザ同盟の同盟結成当初からのメンバーとして北海とバルト海地域の間の最重要積み替え地となった[17]1400年頃、市の人口は約8000人であったが[9]1430年頃には約16000人になっている[17]1510年頃にはじめて出版されたドイツの民衆本『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』の第74話は、主人公が、理髪店に雇われたものの例によっていたずらをしたせいで店から追い出される笑話だが、その町が当地とされている[18]

ジギスムント神聖ローマ皇帝)の治下、市は初めて「帝国直属」(reichsunmittelbar)とされ、1510年アウクスブルク帝国会議において「ニーダーザクセン帝国クライスの帝国都市」(Reichsstadt im niedersachsischen Reichskreis)とされ、1618年には帝室裁判所(Reichskammergericht)もハンブルクの独立を確認している[17]

1529年には宗教改革をうけいれ、ルター派カルバン派の避難場所となった。

1558年、アントウェルペン取引所にならってハンブルク証券取引所(ドイツ語版)が設立され、そこでは植民地生産物だけでなく証券・保険に関する取引も集中処理された[19]

その後、三十年戦争によりハンブルクの商業は大打撃をこうむった。もっとも、市域は強固な防御施設に守られ、戦争の被害は被らなかった[17]。しかし、フランスフォンテーヌブローの勅令が出て逃げてきたユグノーが、当時において先進的な工業技術と潤沢な資金により復興させた。
近世

1709年からアメリカへの移住が始まった。

1720年、ユグノーに厚い
プロイセン王国がオランダへ黄金海岸を売却した。このころよりサンクトペテルブルクの開発が進み、それに呼応してロシア帝国に干渉しオスマン帝国を攻撃するための、政治・経済・軍事拠点としてハンブルクは活躍するようになった。

1810年、ハンブルクはナポレオン1世の軍隊に占領された。しかし、ナポレオンの没落後ふたたび自由都市となり、1815年にドイツ連邦に加盟した。このころにスペイン・ポルトガルから独立していたラテンアメリカ諸国が欧州との貿易を望み、ハンブルクは旧来の取引関係をさらに拡充する機会として積極的に応じた。

1842年に4日間にわたる火災で市街地は被害をうけた(ハンブルク大火)。

近代

1871年の
ドイツ帝国成立の際、ハンブルクはどこの州にも属さず独立を維持した。

1892年にはコレラの流行で8605人もの死者が出た。このときプロイセン王国に属するアルトナ市は、市街地をハンブルクに隣接させていたが、水道を濾過する設備を整えており、コレラの侵入を全く阻んで瘴気説の終焉をもたらした[20]

近現代

1918年11月のハンブルクの人民蜂起はドイツ帝国崩壊の先触れとなり、短期間ではあるが、社会主義レーテ共和国が樹立された。

第二次世界大戦では潜水艦基地がおかれ[注釈 1]連合国軍のハンブルク空襲により多くの市民が命を奪われた。


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