ハンフリー・デービー
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このガスを最初に合成したのはイギリスの自然哲学者で化学者のジョゼフ・プリーストリーで、1772年のことである。彼はそれを「フロギストン化窒素ガス」と称していた(フロギストン説[7]。プリーストリーはその発見を著書 Experiments and Observations on Different Kinds of Air (1775) に記し、鉄のやすり屑を硝酸に浸して熱するという製法も記述した[8]

ジェームズ・ワットはデービーの亜酸化窒素吸入実験のために運搬可能なガス室を製作した。これにより、ワインによる二日酔いの治療に亜酸化窒素が役立つという結論が得られた(デービーの実験記録に「成功」と記されている)。笑気ガスはデービーの周辺の人々や友人には人気があり、デービー本人もそのガスに痛覚を取り除く能力があることに気づいていたにもかかわらず、デービー本人はそれを麻酔剤として使うということに思い至らなかったようである。笑気ガスの麻酔剤としての使用はデービーの死後数十年経って、医療や歯科治療で一般化することになった[9]

デービーは研究所の仕事に熱心に取り組み、周辺の観光案内をしてくれたベドーズ夫人と長い不倫関係を結んだ[10]。1799年12月、初めてロンドンを訪れ、そこでさらに友人を作っている[6]

様々なガス実験でデービーはかなりの危険を冒している。一酸化窒素の吸引実験では、口中で硝酸 (HNO3) が発生したと見られ、口の粘膜を激しく損傷する結果となった。一酸化炭素の吸引実験では、死線をさまようことになった。外気を取り入れてやっと生気を取り戻し「私は死なない」と言ったデービーだが、回復するまで数時間を要した[6]。デービーは実験室から庭によろめき出て、自分の脈を取ってみた。実験記録には「糸のようで (threadlike)、脈が極めて速くなる」と記している。

その年、デービーは West-Country Collections の第1巻を刊行した。その半分はデービーの論文 On Heat, Light, and the Combinations of Light、On Phos-oxygen and its Combinations、Theory of Respiration である。1799年2月22日、デービーはデービス・ギルバートへの手紙にカロリック説が間違っていると確信していると記していた。4月10日のデービス・ギルバートへの手紙では、昨日繰り返し実験することの重要性を証明する発見をしたと記している。それは純粋な笑気ガスを製造する方法を確立したという発見だった。彼はさらに7分近く笑気ガスを吸引し続けても全く問題なかったと記している。同年デービーは Researches, Chemical and Philosophical, chiefly concerning Nitrous Oxide and its Respiration を発表した。後年、デービーはそれらの未熟な仮説を出版したことを後悔している[6]

デービーは気体研究所で電気を使った実験も行って成功したと、デービス・ギルバートへの手紙に書いている。
王立研究所

1799年、ベンジャミン・トンプソンはロンドンでの「知識普及のための研究所」の創設を提案した。科学を知らない一般人向け(貴族向け)に公開実験を行い、科学の普及に貢献することを目的としている。それが王立研究所である。1799年4月に建物を購入。トンプソンが所長となり、最初の講演者はガーネット博士だった。James Gillray による風刺画。王立研究所でガーネット博士が行った講演の様子。ふいごを持っているのがデービー、右端にいるのがベンジャミン・トンプソン。ガーネット博士は被験者の鼻をつまんでいる。

デービーの Researches は斬新な内容で化学に関する発見で溢れていたため、自然哲学者らの関心をひきつけ、デービー自身が一躍注目されるようになった。デービーの動向を長い間気にしていたジョゼフ・バンクスは1801年2月、デービーを公式に呼び寄せ、ベンジャミン・トンプソンヘンリー・キャヴェンディッシュと共に面接した。デービーは1801年3月8日のギルバート宛ての手紙で、バンクスやトンプソンからロンドンの王立研究所での仕事と電気の研究への資金提供の申し出があったことを記している。また、その手紙の中で、ベドーズの気体研究所での仕事は続けられないだろうと記している[9]。1801年、デービーは王立研究所で化学講演助手兼実験主任となり、同研究所の発行する雑誌の編集助手も務め、研究所内に部屋を与えられ、燃料と給料を支給されることになった[6]

1801年4月25日、デービーは比較的新しい分野である動電気学(静電気の対義語。電流が流れる電気を扱う)の講演を行い、天職の1つに出会った。彼は友人のコールリッジと人間の知識の本質や進歩などといった話題でよく会話を交わし、講演では科学的発見によって文明が進歩していくというビジョンを観客に提示した。講演では単に受動的に観察し考察する学者というよりも、自身の実験器具を自在に操って能動的に周囲を支配した。最初の講演は絶賛され、6月の講演では最終的に500人近い観客が集まったという[9]

デービーは講演に華々しい、時には危険ですらある実験を組み込み、天地創造の引用を散りばめつつ、本物の科学的情報も織り込んで解説した。講演者として人気を博しただけでなく、ハンサムなデービーは女性からの人気も高かった。Gillrayの風刺画で描かれた観客のほぼ半数は女性である。動電気学の一連の講演が終了すると、デービーは農芸化学の一連の講演を開始し、さらに人気を博した。1802年7月、王立研究所で1年あまりが経過したころ講演助手から正講演者に昇格した。23歳のことである。ガーネット博士は健康上の問題を理由に静かに引退した[9]

1803年11月、デービーは王立協会フェローに選ばれた[11]。1810年にはスウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員に選ばれた。
新元素発見油に浸した金属ナトリウムボルタ電池金属マグネシウムの結晶

1806年、「結合の電気化学的仮説」を発表。

デービーはボルタ電池を使った電気分解の先駆者であり、よくある化合物を分解して様々な新元素を発見した。彼は溶融塩の電気分解によって非常に反応性の高いアルカリ金属であるナトリウムカリウムといった新たな金属を発見。カリウムは1807年、水酸化カリウム (KOH) の電気分解で発見している。18世紀になるまで、ナトリウムとカリウムは区別されていなかった。カリウムは電気分解で単離された最初の金属である。ナトリウムは、溶融した水酸化ナトリウムを電気分解することで同年デービーが単離した。1808年には石灰酸化水銀の混合物を電気分解することでカルシウムを発見した[12][13]。これは、ベルセリウスらが石灰と水銀の混合物の電気分解からカルシウムのアマルガムを得たと聞き、自分でも試してみた結果である。その後も電気分解実験を続け、マグネシウムホウ素[14]バリウム[15]を発見した。6つの元素を発見した化学者は、デービーただ一人である。
塩素の発見

塩素は1774年、スウェーデンの化学者カール・ヴィルヘルム・シェーレが発見したが、「脱フロギストン海塩酸気」"dephlogisticated marine acid air"(フロギストン説参照)と名付け、酸素を含んだ化合物だと誤解していた。シェーレは、二酸化マンガン (MnO2) と塩酸 (HCl、当時は「海塩酸」と呼ばれた) から塩素を作った。4 HCl + MnO2 → MnCl2 + 2 H2O + Cl2

シェーレは塩素ガスの特性をいくつか観察しており、リトマスを脱色する効果があること、昆虫を殺す効果があること、色が黄緑色であること、王水とよく似た臭いがすることなどを記している。しかし、シェーレはその発見を公表することができなかった。

1810年、塩素を現在の名称である "chlorine" と名付けたのはデービーで、彼はそれが化合物ではなく元素だと主張した[16]。彼はまた、塩酸塩化水素水溶液)を電気分解しても酸素が得られないことを示した。この発見により、酸は酸素の化合物だとするラヴォアジエの定義を覆した。
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デービーは講演者として多くの観客を集め、名声を謳歌した。


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