ハンナ・アーレント
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アーレントは文化大革命という名の党粛清では、大量殺戮も辞さないという威嚇が公然と行なわれていると述べ、毛沢東を、ヒトラーやスターリンと同様に批判している[21][2]
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アーレントは、革命については戦争と分母を同じくするものであり、すなわち暴力が母体になっているとする。


革命は戦争と共に20世紀の様相をかたちづくってきたものであり、戦争が簡単に革命に転化し、革命が戦争への道を開く傾向を示しているのは、暴力がこの両者の一種の公分母になっているからである。聖書と古典が明らかにしているように、人類の伝説的なはじまりは暴力による。「はじめに犯罪ありき」―「自然状態」はそれを理論的に純化して言い換えたものに過ぎない。

また、革命がもたらしたものは「自由の経験」であり[注釈 5]、革命の前提には、近代的な「平等」の観念があったとする。古代においては自然状態における平等は存在しなかった[注釈 6]

アメリカ革命を解放された人間同士の自由な活動として評価し、「地上の生活は稀少性に呪われているのではなく、豊かさに祝福されているはずだという確信の起源は革命に先立つものであり、アメリカ的なものであった」として、近代的な革命の原型を作ったとアーレントはみなしている[注釈 7]。またアメリカ革命の起源になったのはロックとアダムスミスによる労働説にあるとも指摘している[注釈 8]

他方、アーレントは次のようにイギリス革命における「革命」とは「(君主制)の復古」を意味しているとして、批判している[注釈 9]。これに対して、アメリカ革命は、「革命の子をむさぼり食うようなことはせず、したがって「復古」をはじめた人々は、そのまま、革命をはじめ、それを成し遂げ、そのうえ新しい秩序の中で権力と官職に就いた」と評価している。

一方、フランス革命とそれに連なるロシア革命を必要と善意による、民衆の自然的な欲求からの解放を目指したものであったとして否定的な見解を示した[22]。すなわちフランス革命は、「自由の創設から、苦悩からの人間の解放へとその方向を変えたとき、忍耐の障壁を打ち壊し、不運と悲惨の破壊力を解放した」としている[注釈 10]

フランス革命については、エドマンド・バークのフランス革命論は正しいとし、他方、トマス・ペインのものは誤っていたとする。「人権宣言が過去に耳を傾けることのできたような時代は歴史上存在しなかった」し、したがって、過去の時代に「すべての人間が生まれながらにして譲渡不可能の政治的権利を与えられていると見ることは表現上の矛盾」として、批判した。

また、フランス革命における「革命」の観念には、周期的な法則性、「不可抗力的な運動」がみられると指摘し、したがって、フランス革命の結果に、ヘーゲルの歴史哲学があるとしている[注釈 11]。フランス革命におけるこのような「不可抗力的な運動」の観念はのちに「歴史的必然」と言い換えられ、19世紀から20世紀にかけてフランス革命の後継者であると自認する人々は「歴史的必然の代理人」であると主張したとアレントは論じる[注釈 12]。「世界を火のなかに投じたのはアメリカ革命ではなくフランス革命であった」とアーレントはいっている。

フランス革命を継承したロシア革命については「歴史の道化」として批判した[注釈 13]。また「疑いもなくボリシェヴィキ党の粛清は、もともとフランス革命の進路を決定した諸事件をモデルとし、それとの関連で正当化された。両方とも歴史的必然の概念で導かれていたという点で共通していた。」として、粛清の起源をフランス革命とその産物である「歴史的必然」という観念にみた。

ほかにも革命家のヒロイズムにごまかされることなく、彼らが「人間のリアリティに対して無感覚になった」ことをみるべきだとして、批判している[注釈 14]。アレントは「ロベスピエールは魂の葛藤、つまりルソーの引き裂かれた魂を政治の中に持ち込んだ。しかしその領域では、それは解決不可能であったため、殺人的なものとなった。」としている。

また、革命の際に「人民」が求めたのは「政治以前の暴力」であったとしている[注釈 15]

アーレントは『革命論』(1963/65)において、フランス革命の革命家たちには当初、国家形態への情熱的関心や、人間の知識を駆使するといった誇りもあったが、やがて自暴自棄気味の感情に取って代わり、革命それ自体を失っていったと指摘したうえで、ロシア革命も比類なき希望を当初は世界にもたらした分、その後、世界をいっそう深い絶望に陥れたという[23]。アーレントによれば、ロシアの革命家は、事情も条件も変わっていたのに、フランス革命を模倣しなければならないと考え、これが粛清のための裁判において革命家が、判決に従順に従った理由ともなった[23]。革命後に「反革命容疑者」狩りが開始されると、ロベスピエールダントンエベールを粛清したように、革命家たちは両極端のグループに分裂し、急場を救う者が中間に位置すると称して、極右と極左の両方を粛清した[23]。フランス革命を念頭に置いて歴史劇を演じていったロシアの革命家たちは、権力に反抗する勇気と気高さを当初は持ちながらも、「歴史的必然」だと彼らが見なしたものにへりくだり、唯々諾々と従っていった[23]。アーレントは、そのありさまには「壮大な滑稽さ」があったとし、「彼らを道化役にしたのは、歴史であり歴史的必然であった。以来、革命は、道化よろしく愚弄されるという不幸に見舞われている。その不幸にあっては、自由は必然と化すのであり、行為し創設するという経験は、恐るべき無力さの感情を味わっては破滅する」と述べた[23]

このようなアーレントの共産主義や暴力革命に対する批判は当時のアメリカの新左翼に大きく影響を与え、ノーマン・ポドレツアーヴィング・クリストルなど、後に新保守主義の源流となったニューヨーク知識人と呼ばれるユダヤ系知識人の政治勢力を生み出した[要出典]。

その他、評議会制についてアーレントは政党制を排した議会制度として肯定的に検討した[24]
活動的生活

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アーレントは、人間の生活を「観照的生活」(vita contemplativa)と「活動的生活」(vita activa)の二つに分ける。

観照的生活とは、プラトンの主張するような永遠の真理を探究する哲学者の生活である。

活動的生活とは、あらゆる人間の活動力を合わせたものである。

活動的生活は主として、活動(action/Handeln)、仕事(work/Herstellen)、労働(labor/Arbeiten)の三つに分けることができる。

「活動」は、人間が関係の網の目の中で行う行為であり、平等かつお互いに差異のある人間たちの間にのみ存在しうる。個々人は自発的に「活動」を開始し、その行為の結果として自身が何者(who)であるかを暴露する。


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