ハンナ・アーレント
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フランス革命におけるこのような「不可抗力的な運動」の観念はのちに「歴史的必然」と言い換えられ、19世紀から20世紀にかけてフランス革命の後継者であると自認する人々は「歴史的必然の代理人」であると主張したとアレントは論じる[注釈 12]。「世界を火のなかに投じたのはアメリカ革命ではなくフランス革命であった」とアーレントはいっている。

フランス革命を継承したロシア革命については「歴史の道化」として批判した[注釈 13]。また「疑いもなくボリシェヴィキ党の粛清は、もともとフランス革命の進路を決定した諸事件をモデルとし、それとの関連で正当化された。両方とも歴史的必然の概念で導かれていたという点で共通していた。」として、粛清の起源をフランス革命とその産物である「歴史的必然」という観念にみた。

ほかにも革命家のヒロイズムにごまかされることなく、彼らが「人間のリアリティに対して無感覚になった」ことをみるべきだとして、批判している[注釈 14]。アレントは「ロベスピエールは魂の葛藤、つまりルソーの引き裂かれた魂を政治の中に持ち込んだ。しかしその領域では、それは解決不可能であったため、殺人的なものとなった。」としている。

また、革命の際に「人民」が求めたのは「政治以前の暴力」であったとしている[注釈 15]

アーレントは『革命論』(1963/65)において、フランス革命の革命家たちには当初、国家形態への情熱的関心や、人間の知識を駆使するといった誇りもあったが、やがて自暴自棄気味の感情に取って代わり、革命それ自体を失っていったと指摘したうえで、ロシア革命も比類なき希望を当初は世界にもたらした分、その後、世界をいっそう深い絶望に陥れたという[23]。アーレントによれば、ロシアの革命家は、事情も条件も変わっていたのに、フランス革命を模倣しなければならないと考え、これが粛清のための裁判において革命家が、判決に従順に従った理由ともなった[23]。革命後に「反革命容疑者」狩りが開始されると、ロベスピエールダントンエベールを粛清したように、革命家たちは両極端のグループに分裂し、急場を救う者が中間に位置すると称して、極右と極左の両方を粛清した[23]。フランス革命を念頭に置いて歴史劇を演じていったロシアの革命家たちは、権力に反抗する勇気と気高さを当初は持ちながらも、「歴史的必然」だと彼らが見なしたものにへりくだり、唯々諾々と従っていった[23]。アーレントは、そのありさまには「壮大な滑稽さ」があったとし、「彼らを道化役にしたのは、歴史であり歴史的必然であった。以来、革命は、道化よろしく愚弄されるという不幸に見舞われている。その不幸にあっては、自由は必然と化すのであり、行為し創設するという経験は、恐るべき無力さの感情を味わっては破滅する」と述べた[23]

このようなアーレントの共産主義や暴力革命に対する批判は当時のアメリカの新左翼に大きく影響を与え、ノーマン・ポドレツアーヴィング・クリストルなど、後に新保守主義の源流となったニューヨーク知識人と呼ばれるユダヤ系知識人の政治勢力を生み出した[要出典]。

その他、評議会制についてアーレントは政党制を排した議会制度として肯定的に検討した[24]
活動的生活

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アーレントは、人間の生活を「観照的生活」(vita contemplativa)と「活動的生活」(vita activa)の二つに分ける。

観照的生活とは、プラトンの主張するような永遠の真理を探究する哲学者の生活である。

活動的生活とは、あらゆる人間の活動力を合わせたものである。

活動的生活は主として、活動(action/Handeln)、仕事(work/Herstellen)、労働(labor/Arbeiten)の三つに分けることができる。

「活動」は、人間が関係の網の目の中で行う行為であり、平等かつお互いに差異のある人間たちの間にのみ存在しうる。個々人は自発的に「活動」を開始し、その行為の結果として自身が何者(who)であるかを暴露する。それはちょうどギリシアにおけるダイモーン(守護霊)のように、自身には決して明らかにはならないが他者には明白ななんらかの徴である。

「仕事」は、職人的な制作活動に象徴される目的?手段的行為をさす。ある特定の目的の達成をめざして行われる行為はアーレントにとって「仕事」であった。「活動」はその結果として語り継がれる物語以外の何物をも残さないが、「仕事」はその達成された目的の証としての最終生産物を残す。最終生産物の産出に示される「仕事」の確実性は古来より高く評価されており、それ故にギリシア人は本来「活動」そのものであった政治を「仕事」によって行われるよう置き換えることを試みた、とアーレントは指摘している。

「労働」は人間のメタボリズム(?)を反映した行為であり、生存と繁殖という生物的目的のため、産出と消費というリズムにしたがって行われる循環的行為である。「活動」や「仕事」と異なり、人間は生存に伴う自然的な必要を満たすために「労働」を強いられる。それゆえ古来より労働は苦役であり続けたが、アーレントによればマルクスによって人間が行うもっとも生産的な行為として位置づけられた。



マルクス論

アーレントは「伝統と現代」(1954)で、マルクスについて論じる。マルクスは、政治思想の伝統に挑戦するなかで、「暴力は、旧い社会が新しい社会を孕んだときにはいつでもその産婆となる。[25]と述べて、暴力の賛美と言論への敵意を主張した[26]。マルクスによれば、人間の生産性を発展させる隠れた力は、戦争と革命の暴力を通じてのみ明るみに出るのであり、歴史は暴力の時代にのみ真の顔をみせ、そこでは、イデオロギー上の偽善的な空論が一掃される[26]。政治思想の伝統において、暴力は、ティラニー(tyranny、暴政、僭主制)の特徴とみなされ、国家間の関係における最終手段であり、自国民へ向けられる暴力は最も不名誉なものとみなされてきたが、マルクスは、逆に暴力を、統治の不可欠な構成要素とみなし、政治的行為の領域を暴力の使用によって特徴づけた[26]。マルクスが知悉するアリストテレスは、ギリシア人と他民族バルバロイ(夷狄)と区別するために、人間を「ポリス的動物」、および「言葉を持つ動物」と定義し、ギリシア人は暴力に頼らない言論による説得を重視するのに対して、バルバロイは暴力によって支配され、奴隷は労働を強制された[26]。ギリシア人にとって労働は非政治的で私的な事柄に属するものであり、これに対して暴力は否定的であるが他者との交わりを確立するものであった[26]。こうしてマルクスは、ロゴスすなわち言論を否定し、それに付随して暴力を賛美した[26]

マルクスの理論に不整合があることはほとんどすべてのマルクス研究者が熟知している[27]。しかし、それも、マルクスが、労働と行為を賛美しながら、国家のない、労働のない社会を賛美するという根本的矛盾に比べれば些細なことである。マルクスの根本的矛盾は、政治思想の伝統の前提を根本から覆そうとしたためであった[27]

アーレントは、1958年の論文[28]で、マルクスが「人間は歴史を作る」と考えた背景には、政治と歴史の混同があり、これはマルクス自身にとっては歓ばしいことだったとしても、かれの追随者にとっては命取りとなったとする[29]。歴史家の態度と制作者の態度が結びつくことは危険である[29]。人間が知ることのできない「高次の目的」を、計画的・意図的な目的へと転換することが危険なのは、それによって意味が目的へと転化させられてしまうからである。このような転化は、ヘーゲルが歴史に込めた意味(自由の理念が現実化していく)を、マルクスが人間の行為の目的と考え、この目的を制作過程の最終生産物と見なしたときに生じた。しかし、自由や意味は、人間の活動様式の生産物ではありえない[29]

マルクスは、人間が「歴史を作る」ことが可能であるとすれば、歴史には終わりがあるという結論を逃れるわけにはゆかないということを自覚していた[30]


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