ハンナ・アーレント
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代表作『全体主義の起源』(1951年)などにおいて、ナチズムとソ連ボリシェヴィズムスターリニズムなどの全体主義を分析したことで知られる[2][3][4]
生涯
幼年時代

ドイツ、ケーニヒスベルクの旧い家柄である、ドイツ系ユダヤ人のアーレント家に生まれる。出生地はハノーファー郊外のリンデン(Linden)。父は工学士の学位を持ち、電気工事会社勤務のパウル・アーレント、母はマルタ・アーレント。両親ともに社会民主主義者であった。

父パウルはギリシアラテンの古典についての深い造詣を持つ教養人で、ハンナの読書は彼の蔵書から始まった。母マルタは注意深くハンナを育て、詳細な育児記録が残っている。それによると、幼いハンナは一人でいることを好まず、好奇心が強く、知的にきわめて早熟で、言葉や数学に対しては高い理解力を見せ、音楽を好みつつ音痴だったという。

両親ともに信仰を持たなかったが、家族ぐるみの付き合いであったラビのフォーゲルシュタインのシナゴーグに、幼いハンナは通う。一方、法律的な義務からキリスト教の日曜学校にも通う。またアーレント家のキリスト教徒のメイドたちからの影響も大きく、彼女の宗教観は複雑な発展をみせる。もっとも、後年、「子供の時以来、自分はいかなる時でも神の存在を疑ったことはない」[注釈 1]と述べたように、ある種の信仰は生涯通じて持ち続けた。

15歳の折、当時在学中だったルイーゼシューレにおいて、若い教師の授業をクラスメートと共にボイコットし、放校処分になる。その後、二学期の間ベルリン大学で学ぶ。神学教授のグァルディーニによるキルケゴールの授業に深い影響を受ける。半年間の独学ののち、1924年、18歳にして大学入学資格試験に合格、マールブルク大学に入学。
大学時代

1924年の秋、マールブルク大学でマルティン・ハイデッガーと出会い、アーレントは哲学に没頭する。本人はこの哲学へののめりこみを、「初めての情事」という形で表現している[6]。なお、当時既婚であったハイデッガーとは一時不倫関係にあった[注釈 2]。また、ここで出会ったハンス・ヨナスとは終生の友人となり、同大学において共にルドルフ・ブルトマンの新約聖書のゼミを受講する。

その後、フライブルク大学エトムント・フッサールのもとで一学期間を過ごした後、ハイデルベルク大学に赴き、カール・ヤスパースの指導を受ける。博士論文は『アウグスティヌスの愛の概念』。この頃、クルト・ブルーメンフェルトと出会い、シオニストの政治思想・活動に目を開かれている。

1929年9月、ギュンター・シュテルンと結婚。1931年にはフランクフルトに引越し、カール・マンハイムティリッヒの講義に参加する。ラーエル・ファルンハーゲンの研究は、この時期になされた。
ナチズム以降

ナチスが政権を獲得しユダヤ人迫害が起こる中、ブルーメンフェルトに協力し、反ユダヤ主義の資料収集やドイツから他国へ亡命する人を援助する活動に従事する。一度は逮捕される危険にあう。1933年フランスに亡命。この地でもシオニスト関係の仕事に従事する。1937年ギュンターと別れる。1940年スパルタクス団ドイツ共産党に参加した活動家ハインリッヒ・ブリュッヒャーと結婚。彼から政治的思考を学ぶこととなる。

第二次世界大戦が始まり1940年フランスがドイツに降伏する1941年アメリカ合衆国に亡命する。1951年、市民権取得、その後、バークレーシカゴプリンストンコロンビア各大学の教授・客員教授などを歴任。1967年ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチの哲学教授に任命される。

1951年に『全体主義の起源[7]を著し、全体主義について分析した。その後も、みずから経験した全体主義およびそれを生み出すにいたった西欧の政治思想を考察した。

1963年ニューヨーカー誌に『エルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告』を発表し、大論争を巻き起こす[注釈 3][注釈 4]

1975年12月4日、自宅にて心臓発作により死去(69歳)。
思想
全体主義批判「全体主義の起源」および「マルクス主義批判」を参照

アーレントは、身をもって経験した全体主義の衝撃、「起こってはならないことが起こってしまった」ことから、政治についての思索を開始するに至った。1945年に「リアリティとは、『ナチは私たち自身のように人間である』ということだ。つまり悪夢は、人間が何をなすことができるかということを、彼らが疑いなく証明したということである。言いかえれば、悪の問題はヨーロッパの戦後の知的生活の根本問題となるだろう…」と発言している[10]。彼女の政治哲学の原点は「人間のなしうる事柄、世界がそうありうる事態に対する言語を絶した恐れ」[11]であった。なぜ人間にあのような行為が可能であったのかという深刻なショックと問題意識から、彼女は政治現象としての全体主義の分析と、その悪を人びとが積極的に担った原因について考え続けることになる。

アーレントは代表作となった『全体主義の起源』(1951年)や、『革命について』(1963年)のなかで、ナチズム国民社会主義ソ連共産主義ボリシェヴィズム大粛清恐怖政治の起源をフランス革命に見いだして批判した[2]。アーレントは、ナチズムとスターリンのボルシェヴィズムの全体主義がそれまでの専制政治とは異なるところは、両者ともに世界征服を目指しており、秘密警察と強制収容所が国家の中核にあり、人間をテロル恐怖政治)の鉄のに押し込んだと指摘する[2]

アーレントによれば、スターリン体制の犯罪性は、数百から数千の著名な政治家や文学者の殺害にだけあったのではなく、何ぴとも、スターリンですらも「反革命的」活動の嫌疑をかけることは不可能だった数百万の無辜の民の殲滅にこそあった[12]。フルシチョフによるスターリン批判は、むしろスターリン体制の犯罪性を矮小化するものであり、隠蔽するものだった[12]


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