1919年9月から10月頃、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の前身であるドイツ労働者党党首アントン・ドレクスラーの知遇を得、彼からアドルフ・ヒトラーの演説会に出席することを薦められ、はじめてヒトラーの演説を聞いたという。しかしこの時のヒトラーは疲れ果てた感じで、フランクはあまりいい印象を受けなかったという[15]。同年にドイツ労働者党に入党しているが、1920年春にドイツ労働者党が国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に再編された際には参加を見合わせた[13]。
彼は戦後ミュンヘン大学に入学して法学を学んでいたが、のちにキール大学へ移った。1923年夏に一時キールからミュンヘンへ戻った頃にはナチ党はバイエルン州の一大勢力になっていた[15]。フランクは1923年9月にも突撃隊に入隊し、10月にはナチ党に入党した[16]。さらに同年11月のミュンヘン一揆にも参加したが[17]、一揆は失敗し、ヒトラーは逮捕された。しかしフランクは逮捕されていない。フランクはこの後ミュンヘンの裁判所で行われたヒトラーの裁判で弁護を行った[18]。
1924年にキール大学から法学博士号を得た。父親の法律事務所の手伝いをしていたが、1925年に父親が横領容疑で逮捕され、弁護士資格を失っている(1928年に復権)[10][19]。フランク自身は1926年に法曹資格を取得し、ミュンヘンで弁護士として活動した[9]。
1925年には貧しい工場労働者の娘でバイエルン州議会でタイピストをしていたブリギッテ・ハープスト(Brigitte Herbst)と結婚した[20][21]。彼女は美人ではあったが、フランクより4歳年上で二人はまったく気が合わなかったという。フランクは彼女と出会ったことを「我が人生最大の過ち」と称している[22]。彼女との間に息子3人、娘2人がいたが、この子供たちの存在だけが唯一の夫婦の接点であったという[23]。そのようなわけでフランクはその時々で複数の愛人を持っていた[24]。 1926年6月16日に再建されたナチ党に再入党したが(党員番号14)[25]、フランクの父がナチ党を嫌っていたため[26]、同年8月10日には離党した[17]。 しかしナチ党員の弁護活動をこなしていくうちに、1927年9月2日に再びナチ党に入党(党員番号40079)[13]。ナチ党の専属弁護士となった[27][20]。1929年に党法務部長に就任[9]。1930年の国会議員選挙でナチ党から出馬して国会議員に当選。当時30歳で最年少国会議員の一人だった[20][28]。 フランクの回顧録によると、フランクは1930年にアドルフ・ヒトラーの自宅に呼び出され、ヒトラーからヒトラーのユダヤ人疑惑の真偽を確かめるために彼の家系を内密に調査せよと命じられていたという。フランクの調査を簡単にまとめると次のとおりである。「ヒトラーの父方の祖母マリアが父親不明で息子アロイス(ヒトラーの父)を産んだことが疑惑の原因である。当時マリアはグラーツ在住のユダヤ人フランケンベルガー家にメイドとして雇われており、マリアとフランケンベルガー家の間には私生児ができてしまった場合には養育費を支払う旨の暗黙の約束をした書簡が発見された。そして現にフランケンベルガー家からマリアにアロイスが14歳になるまで養育費が支払われている。そのためマリアがフランケンベルガー家の当主かその息子のお手つきになって子供を孕ませ、それがアロイスだった可能性がある。この場合、ヒトラーには四分の一ユダヤ人の血が入っていることになる。一方、マリアの夫となるヨハン・ヒードラーの方を父と考えるとヒトラーにはまったくユダヤ人の血は入っていない事になる。どちらが真の父親か調べる事は不可能であるため、ユダヤ人の血が流れている可能性は否定できない。」一方ヒトラーはこれを聞いても平静で概ね予想通りの結果といった感じに受け止めていたという。彼は祖母マリアとフランケンベルガー家の間のやり取りを承知していたようで、すでに自ら結論を出していた。すなわち「マリアはフランケンベルガー家で働いていた頃から後に結婚するヨハン・ヒードーラーと密通しており、アロイスは普通にヨハンとの間にできた子供だった。しかしマリアはフランケンベルガー家から養育費をだまし取ろうとしてフランケンベルガー家に金を出せと詰め寄った。裁判に持ち込まれて醜聞を表ざたにされたくなかったフランケンベルガー家は養育費を支払った」ということである。この場合、ヒトラーは詐欺師の孫ということになるが、ヒトラーはユダヤ人の孫になるぐらいなら詐欺師の孫になることを選ぶようだった[29]。今日の研究でもヒトラーの父がユダヤ人の血筋であるとする説はほぼ否定されている[30]。 ナチ党政権掌握後の1933年3月10日にバイエルン州法務省の州委員(Staatskommissar)に就任。ついで4月18日にバイエルン州法相
ナチ党の法律家
ナチ党政権掌握後.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースにハンス・フランク編『ナチスの法制及び立法綱要』の原文があります。1939年のフランク。
1934年にバイエルン州でエルンスト・レーム以下突撃隊幹部が逮捕された際(長いナイフの夜)には、シュターデルハイム刑務所看守から「親衛隊がやって来て突撃隊幹部を次々と監獄に入れている」という連絡を受けて、刑務所に直行し、独房に入れられているエルンスト・レームに遭い、「いいかね。エルンスト。貴方は私の治める司法の及ぶ範囲にいるのだよ」と述べて彼に法的手続きを保障したという。