ハンス・ケルゼン
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1929年にオーストリアで全体主義が台頭し、憲法も改変された[12]。また、この頃彼はオーストリア憲法裁判所の終身判事に就任している。

1925年、彼は『一般国家学』(原題:Allgemeine Staatslehre)をベルリンで出版した。

1930年にはケルン大学へ招聘された。1933年ナチスドイツで権力を握ると、彼は職を辞し、1940年までジュネーヴにある研究機関(現在の国際・開発研究大学院)で国際法を教えた。また、チェコスロバキアがドイツに併合されるまでは、彼はプラハ・ドイツ大学の教授でもあった。その後、1934年には『純粋法学』(原題:Reine Rechtslehre)の第一版を出版した。一方、ジュネーヴにおいては彼の主要な関心はすでに国際法に移りつつあった。

1940年になると彼はアメリカ亡命し、1942年にはハーバード・ロー・スクールオリバー・ウェンデル・ホームズ記念講義を担当した。1945年、彼はカリフォルニア大学バークレー校政治学の教授になった。この期間中、彼は国際法と国際連合のような国際組織との関係について研究した。1953年から1年間、彼はアメリカ海軍大学校で、客員教授として国際法を教えた。

カリフォルニア大学バークレー校を1952年に退職する前の在任時から、『純粋法学』(1934)の増補第二版を1960年に刊行した。ウィーン大学にあるケルゼンの頭像

ケルゼンの90歳の誕生日を記念して、オーストリア連邦政府は1971年にハンス・ケルゼン研究所を設立した。2006年には、フリードリヒ・アレクサンダー大学エアランゲン=ニュルンベルクにハンス・ケルゼン研究センター(Hans-Kelsen-Forschungsstelle)がMatthias Jestaedt所長のもと設立され、その後アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルクに移設された。
業績
法理論

ケルゼンの主な業績は近代のいわゆる「ヨーロッパ型憲法モデル」の再検討である。殊にオーストリア第一共和国で採用されケルゼン自身も審理に関わった憲法裁判所の制度は多くの国の特別憲法裁判所のモデルとなり、ドイツ連邦共和国イタリアスペインポルトガルをはじめ中欧から西欧にかけての国で採用された。このシステムにおいては、アメリカ型の違憲審査制とは大きく異なり、憲法裁判所が憲法解釈における唯一の権威者である。

法実証主義を最も厳密な形で採用し、科学的正確さを追求した彼の法理論、いわゆる「純粋法学」は、根本規範 (Grundnorm)と呼ばれる理論に基づいている。これは憲法や一般法など、全ての法の上位にある原理として仮定されるものである。

ウィーン時代には、ジークムント・フロイト学派とも交流し、社会心理学の論文も書いている。
マルクス主義批判「マルクス主義批判」を参照

ケルゼンは、オーストリア・マルクス主義オットー・バウアーマックス・アドラーとも交流し、政治的には社会民主主義に共感していたものの、どの政党にも関与せずに中立の立場を保ち続けた[4]。しかし、ロシア革命の実態が徐々に明らかになるにつれて、民主主義を否定するボルシェヴィズムおよびマルクス主義を『社会主義と国家』(1920)や『民主主義の本質と価値』 (1920/1929年)において批判した。
『社会主義と国家』(1920)

ケルゼンは『社会主義と国家』(1920)で詳細にマルクス主義を批判する。『共産党宣言』(以下『宣言』)は、革命によってプロレタリアを支配階級に高めて民主制を闘い取ると宣言するが、ケルゼンは、多党制においては、プロレタリアの支配を樹立する目的のために、「民主主義を闘い取る」ことは、目的を実現する手段とはならないという[13]。ケルゼンによれば、国民が普通選挙を通じて政治参加する民主制においては、労働者も、雇用者も、プロレタリアも、ブルジョワジーも政治的に同権であるため、政治的には階級支配は生じない[13]。また、民主制において支配権を持ちうるのは政党であり、従って政権を奪取するのは、プロレタリア「階級」ではなく、プロレタリア政党である[13]

『宣言』では、ブルジョワ階級に代わって、各人の自由な発達こそ万人の自由な発達の条件となるような結合体 (アソシエーションが登場するとされる[14]。しかし、ケルゼンは、ここでは既存の民主制が階級支配であると前提され、さらにその階級支配を国家と同一とする、二重の誤りがあるとする[14]

搾取と階級対立が消滅した社会では、労働によらない収入が認められていないので、万人に対して労働強制が必要であると『宣言』はいうが、ケルゼンは、搾取が廃絶されれば、人間性が根本的に変化し、万人が自発的に労働するようになるか疑問であり、また、不可避の例外や、生産関係以外の動機から生じる違反に対しては強制をもって社会秩序を守る必要が生じるし、搾取と階級対立の消滅が、宗教的情熱、嫉妬、名誉欲、性欲などの社会的均衡を撹乱する非経済的諸要因を消滅させることにはならないという[15]。『宣言』は人間が一切の国家的強制からの解放を主張するが、むしろ人間の自然な不平等が発現することにもなるだろうとケルゼン は述べる[16]

社会主義は、無政府状態を平等の秩序であると同時に自由の到来を約束するが、ケルゼンは、ここには矛盾があるとして、社会主義とは、計画的・合理的な社会秩序であって、自然的秩序とはならない。秩序の規制が複雑化すればするほど、その目的達成のための強制は必要となっていくと指摘する[16]

マックス・アドラーなどのマルクス主義者は、プロレタリアは特定の階級ではなく、全社会の代表者であると説いた[17]。しかし、ケルゼンは、プロレタリアが唯一の政治的権利の享有者であり、その党員のみが選挙権を享有するという主張は、特定の社会観の政治的理念を独断的に絶対化したもので、貴族制的・専制制的支配の用いる典型的な擬制であり、神権制のイデオロギーであると批判する[17]。「人民代表機関が真の共同体意志を表明する」という主張は、社会主義の諸党派が互いに激烈に対立することからも、甚だ疑わしいとケルゼンはいう[17]

ケルゼンによれば、プロレタリア独裁は、民主制に対立する専制制の一形態であり、正義について絶対的価値を前提とする立場であり、相対的な価値を認める批判的・相対主義的世界観と対立する[18]。民主制は、その時々の多数者の意思に支配権を委ねるが、その多数意見が絶対的な善・絶対的正義であるという保障を与えないし、民主制における多数者の支配においては、少数者の存在を前提するのみならず、政治的に承認し、それに保護さえも加え、あらゆる政治的信念の価値は相対的である[18]。民主制では、政治的信念や政治理念の絶対的妥当性は不可能であり、他を排除して特権を独占するような政治的絶対主義は否定される[18]
『民主主義の本質と価値』 (1920/1929)

『民主主義の本質と価値』 (1920/1929年)では、レーニンは「国家と革命」などで議会性の廃止を主張した[19][20]が、レーニンは議会制を論破できていないし、ボリシェヴィキがロシア・ソヴィエト憲法で樹立したのは代議制度であったとケルゼンはいう[20]


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