ハンサー
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ハンサー
アラビア書道による名前表記
現地語名???????
誕生c. 575
ナジュド
死没c. 646年(70 - 71歳没)
ナジュド
職業詩人
言語アラビア語
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アル=ハンサー(アラビア語: ???????‎, ラテン文字転写: al-Khans??, 575年646年)はアラビア半島の詩人。本名はTum??ir bint ?Amr[1]。アラビア語文芸において、初期の重要な女性詩人である[2]
略歴

ハンサーはイスラーム以前のジャーヒリーヤ時代にアラビア半島北部のムダル族(英語版)に生まれた[注釈 1]。砂漠で暮らすベドウィンは、周囲の変化によって自らも価値観の変化を求められるようになり、多くの詩人が生まれた時代でもあった[注釈 2]。ハンサーは父・母・兄弟ともに詩人の家庭に育ち、恋人や娘も詩人だった[5]。美しく鼻に特徴があり、あだ名として「鷲鼻の女」(ハンサー)と呼ばれた[1]
作品・影響ハリール・ジブラーンによるハンサーの肖像画。ジブラーンのエッセイ集『驚異と奇譚』に収録されたスケッチ[6]

アラビア語詩において、ハンサーは悲歌(リサー(英語版))を完成したとされている。ハンサーは抒情詩人として活動を始めたが、諸部族は互いに紛争や略奪を行なっており、ムアーウィヤ(Mu’?wiya)とサフル(Sakhr)という二人の兄を失う。彼女は兄の死を嘆くとともに、復讐を誓う詩を詠むようになる。こうしてハンサーは悲歌によって名を馳せ、アブー・タンマームが編纂した『武勇詩集』にも作品が収録された[7][8]

ベドウィンは、戦いの一環として詩による誹謗の応酬も繰り広げた。平時にも詩の対決はあり、諸部族が交易で集まる市場が対決の舞台になった。メッカ郊外にあるウカーズの市場は有名であり、ハンサーも詩の対決に参加し、勝利している[9]。やがてイスラームによってジャーヒリーヤ時代の風習が消えると、女性が社会の前面に出る機会が減り、女性による文芸の記録も減っていった[10]

イスラーム学者のグスタフ・E・フォン・グルーネバウム(英語版)は、西欧で初めて論じられたアラブ詩人の一人がハンサーであると語った[11]。死に対するハンサーの作風は、現代パレスチナのジャユースィー(英語版)やファドワ・トゥカーン(英語版)にも通じるものがあるともいわれる[12]
出典・脚注[脚注の使い方]
注釈^ ジャーヒリーヤ時代は622年7月16日のヒジュラ暦元年より前の時代を指し、厳密にはそれに先立つ1世紀となる[3]
^ メソポタミアではガッサーン朝(英語版)がアラビア半島への進出をうかがっており、ネストリウス派の修道士がアラビア半島を訪れていた。それまで続いてきたベドウィンの部族社会や信仰が変化を迎えようとしており、イスラームによって解決されることになる[4]

出典^ a b 堀内 2014, p. 397.
^ 関根 1979, pp. 13?14.
^ 関根 1979, p. 14.
^ 関根 1979, pp. 14?15.
^ 関根 1979, pp. 18?19.
^ 岡ア 2009, pp. 13?14.
^ 関根 1979, pp. 15?20.
^ 関根 2017, pp. 60, 62?63.
^ 岡ア 2009, p. 300.
^ 関根 1979, pp. 206?207.
^ 岡ア 2009, p. 20.


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