ハンク・ウィリアムズ
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ハンクの曲をカバーした歌手たちの例としては、ウィリー・ネルソンタウンズ・ヴァン・ザント(Townes Van Zandt)、ボブ・ディランレナード・コーエンケイク、ケニー・ランキン(Kenny Rankin)、ベック・ハンセンジョニー・キャッシュトニー・ベネットザ・レジデンツパッツィ・クラインレイ・チャールズルイ・アームストロングトム・ウェイツなどが挙げられる。また幼少期のビートルズのメンバーもウィリアムズに大きな影響を受けた。ウィリアムズは多数の栄誉に輝いており、ロックの殿堂入りも果たしている。
生涯
生い立ちアラバマ州ジョージアナに残るハンク・ウィリアムズの少年時代の家。現在は博物館になっている。

両親、イングランド系の父イロンゾ・ハブル・ロン・ウィリアムズ(Elonzo Huble Lon Williams)[6] と、母ジェシー・リリーベル・"リリー"・スキッパー(Jessie Lillybelle "Lillie" Skipper)は、1916年11月12日にJ・C・ダンラップ師(Reverend J.C. Dunlap)の司式で結婚した。イロンゾの母アン・オートリー・ウィリアムズ(Anne Autrey Williams)は、イロンゾが6歳のときに自殺し、父はその11年後に亡くなった。以降、イロンゾは孤児となった。第6学年で学校を退学したイロンゾは、森林伐採現場で、給水などをする雑用係として働き始めた。やがてイロンゾは、W・T・スミス木材会社(the W.T. Smith lumber company)の鉄道部門で機関士となった。イロンゾが求婚したとき、ジェシー・スキッパーはアラバマ州ジョージアナの近くでミクソン(Mixon)家が所有していた農場に住んでおり、イロンゾの近くにいた。2人は、しばらくの間ミクソン農場に住んだ後、アラバマ州マウント・オリーブ(Mount Olive)地域に小屋を借りた。2人は家の脇に小さな店を設け、イチゴの栽培にも取り組んだ。第一次世界大戦が始まると、イロンゾは徴兵され、1918年7月から1919年6月まで軍務についた。その間に、トラックから落ち、鎖骨を折る重傷を負ったが、辛うじて頭部は強く打たずに済んだ。イロンゾ・ウィリアムズが戦争から戻ってきた後、最初の子どもアイリーン(Irene)が1922年8月8日に生まれた。次に生まれた男の子は、産後間もなく亡くなった[7]。ハンク・ウィリアムズは、 イロンゾとリリーの3人目かつ最後の子として1923年9月17日にマウント・オリーブで誕生した。名前は、旧約聖書の人物ヒラムフリーメイソンの伝説によれば、メイソンの起源のひとり)にちなんでハイラムと名付けられたが、出生証明書には誤った綴り字で「Hiriam」と記された[6]

幼少期のウィリアムズは、家族からは「ハーム (Harm)」と呼ばれ、友達からは「ハーキー (Herky)」とか「スキーツ (Skeets)」と呼ばれていた。彼は、脊椎の形成不全による二分脊椎症の疑いがある状態で生まれ、そのため生じる痛みに一生苛まれ続けた。後年、酒や薬物に溺れるようになった原因は、この痛みにあった。材木会社の鉄道員だった父イロンゾは、会社の命令でしばしば勤務地を移った。このため一家は、アラバマ州南部のあちこちで生活した。1930年、ウィリアムズが7歳だったとき、父は顔面麻痺を患い始めた。退役軍人局(Veterans Affairs, VA)のフロリダ州ペンサコーラの病院で、脳動脈瘤が原因と診断された後、イロンゾはルイジアナ州アレクサンドリアの退役軍人医療センターへ送られた。イロンゾは8年間にわたって入院し、ウィリアムズの幼少期に父はずっと不在であった。イロンゾの入院後、母は家族を支えなければならなくなった。1933年、ウィリアムズ一家はアラバマ州ファウンテン(Fountain)に移り、伯父伯母にあたるウォルターとアリスのマクニール夫妻(Walter and Alice McNeil)と一緒に住んだ。1934年秋、一家はグリーンビル(Greenville)に移り、母は、バトラー郡裁判所の隣で、下宿屋を開業した。1935年、ウィリアムズ一家はガーランド(Garland)に転居し、新たな下宿屋を設けた。その後しばらくして、一家は従兄弟のオパール・マクニール(Opal McNeil)とともにジョージアナに移り、世界恐慌下の厳しい経済環境の中で生活した。リリーは昼は缶詰工場で働きながら、地元の病院で夜勤の看護婦としても働いた。ウィリアムズも、ピーナッツを売ったり、靴磨き新聞配達をしたり、その他諸々の単純な仕事を引き受けていた。ジョージアナで最初に住んだ家は、火事で焼失し、一家は財産を全て失ってしまう。一家は、町の反対側のローズ・ストリート(Rose Street)の新しい家へ移り、ここでまた下宿屋を始めた。ウィリアムズはこの家の小さな庭で作った様々な野菜をジョージアナの至る所へ売りに行った。一方で、連邦下院議員だったJ・リスター・ヒルの支援を得て、一家はイロンゾの傷痍軍人年金を受け取れるようになった。イロンゾの入院という状況にありながら、一家は世界恐慌の期間を経済的に何とか乗り切って行くことができた[8]

ウィリアムズが最初のギターを手に入れた事情については、いくつかの異なる話が伝えられている。母は、ピーナッツを売って得たお金で彼女が買い与えたと述べているが、自分がギターを買い与えたのだと主張する有力な町の住民が少なからずいる。ジョージアナに住んでいたときに、ウィリアムズはルーファス・ティー=トット・ペイン(Rufus Tee-Tot Payne)という黒人の路上演奏者に出会い[7]、自宅で食事を提供する代わりにギターを習った。ペインの音楽スタイルの基にはブルースがあった。ペインがハイラムに教えたコードコード進行、ベース音の進行、伴奏のスタイルは、後年の曲づくりに大いに活かされることになった。後にウィリアムズは、かつてペインが教えてくれた曲のひとつ「My Bucket's Got a Hole In It」を録音した[9]。最終的に彼が作り上げたスタイルには、ペインからの影響に加えジミー・ロジャーズ(Jimmie Rodgers)などカントリー歌手たちからの影響も盛り込まれていた[10]1937年、ウィリアムズは、指示された練習内容をめぐって学校の体育教師と喧嘩を起こした。母は教育委員会に教師を解雇するよう要求したが断られたため一家はモンゴメリーに移った。これ以降、ペインとウィリアムズ一家は接触を失った。ペインもやがてモンゴメリーへ移ったが、1939年に貧困の中で死んだ。後にウィリアムズは、ペインは自分にとって唯一の教師だったと述べている[11]
初期の活動

1937年7月、ウィリアムズ/マクニール一家は、モンゴメリー中心部のサウス・ペリー・ストリート(South Perry Street)に下宿屋を開いた。この頃、ウィリアムズは自分の名前を非公式にハンク・ウィリアムズと改めることを決めた。その方が、自分の望みであるカントリー音楽に関わる仕事にふさわしいとと本人が語っている。学校の放課後や、週末になると、ウィリアムズは、シルバートーンのギターを抱えて、地元のラジオ局WSFAのスタジオ前の歩道で演奏した。首尾よくWSFAの関心を引くことができたウィリアムズは、時折スタジオ内に呼ばれ、放送で歌うことができた。多くの視聴者からウィリアムズに関する問い合わせが集まったため、WSFAはウィリアムズを週給15ドルで雇い、週2回、15分間の番組を任せた(当時の15ドルは、2011年の価値では230ドル程度(およそ2万円)に相当する[12])。当時のアラバマ州知事ギブ・グレイヴス(Bibb Graves)も、この放送を聴いていたひとりだった[6]1938年8月、父イロンゾが病院から一時帰宅を許され、予告無くモンゴメリーの自宅に現れた。母は家長としての立場を譲らなかったため、彼は息子の誕生月である9月まで滞在し、その後ルイジアナの医療センターに戻っていった[7]

ウィリアムズは、ラジオ局から支払われる十分な報酬を使い、ザ・ドリフティング・カウボーイズというバンドを結成した。最初のメンバーは、ギターのブラックストン・シューファート(Braxton Schuffert)、フィドルのフレディ・ビーチ(Freddie Beach)、お笑い担当のスミス・"ヘジー"・アデア(Smith "Hezzy" Adair)であった。ジェームズ・E・ポーター(James E. Porter)、通称ジミー・ポーター(Jimmy Porter)は、ウィリアムズのもとでスティール・ギターを弾き始めたときには13歳で、最も年少のメンバーだった。アーサー・ホワイティング(Arthor Whiting)もギターを担当していた。バンドを率いたウィリアムズは、アラバマ州の中南部を中心に各地のクラブや私的なパーティーのための演奏旅行を実施した。1939年10月に、ウィリアムズは学校を退学し、ザ・ドリフティング・カウボーイズと共に音楽活動に専念した。その後、フィドルのジェームズ・エリス・ガーナー(James Ellis Garne)がバンドに参加した。母リリーはバンドのマネージャーとなり、予定の管理や、出演料の交渉を行い、公演会場まで送迎する車の運転をすることもあった。それまで優先されていたウィリアムズの学業という制約が無くなったことで、バンドはジョージア州西部や、フロリダ州西部(いわゆる Florida Panhandle)にまで、足を伸ばすようになった。


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