ハンガリー
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14世紀から15世紀ごろには周辺の諸王国と同君連合を結んで中央ヨーロッパの強国となった[5]

1396年オスマン帝国とのニコポリスの戦いで敗北。フス戦争1419年 - 1439年)。15世紀後半からオスマン帝国の強い圧力を受けるようになった。1526年には、モハーチの戦いに敗れ、国王ラヨシュ2世が戦死した。1541年ブダが陥落し、その結果、東南部と中部の3分の2をオスマン帝国(オスマン帝国領ハンガリー)、北西部の3分の1をハプスブルク家オーストリアによって分割支配され(王領ハンガリー)、両帝国のぶつかりあう最前線となった。

三十年戦争1618年 - 1648年)には、プロテスタント側にトランシルヴァニア公国が、カトリック側に王領ハンガリーが分裂して参加した。

1683年第二次ウィーン包囲に敗北したオスマン帝国が軍事的に後退すると、1699年カルロヴィッツ条約で、ハンガリーおよびハンガリー王国領のクロアチアやトランシルヴァニアはオーストリアに割譲された。ハンガリーにとっては支配者がハプスブルク家に変わっただけであり、たびたび独立を求める運動が繰り返された。オーストリア=ハンガリー帝国におけるハンガリー(赤、1914年

1848年3月革命では、コッシュート・ラヨシュが指導した独立運動こそロシア帝国軍の介入により失敗したが、オーストリアに民族独立運動を抑えるための妥協を決断させ、1867年キエッジェズィーシュ(和協)が結ばれた。これにより、ハプスブルク家はオーストリア帝国とハンガリー王国で二重君主として君臨するが、両国は外交などを除いて別々の政府を持って連合するオーストリア=ハンガリー帝国となった。

オーストリア=ハンガリー帝国の体制下で資本主義経済が発展し、ナショナリズムが高揚したが、第一次世界大戦で敗戦国となり、オーストリアと分離された。
ハンガリー人民共和国時代(1918年 - 1919年)[ソースを編集]

1918年10月31日、アスター革命(ハンガリー語版)(ハンガリー語: ?szirozsas forradalom)でハンガリー初の共和制国家であるハンガリー人民共和国が成立し、社会民主党系のカーロイ・ミハーイ(英語版)が初代大統領および首相を務める。
ハンガリー・ソビエト共和国時代(1919年 - 1919年)[ソースを編集]

1919年3月、ハンガリー共産党クン・ベーラによるハンガリー革命(英語版)が勃発し、クン・ベーラを首班とするハンガリー・ソビエト共和国3月21日 - 8月6日)が一時成立したが、ルーマニアの介入で打倒される(ハンガリー・ルーマニア戦争)。
ハンガリー王国時代(1920年 - 1945年)[ソースを編集]ハンガリー王国 (1920年-1946年)。黄が1920年、緑が1941年の領域

1920年3月1日、ハプスブルク家に代わる王が選出されないまま、ホルティ・ミクローシュ摂政として統治するハンガリー王国の成立が宣言された。1920年6月4日に結ばれたハンガリーと連合国とのトリアノン条約により、二重帝国時代の王国領のうち、トランシルヴァニアやハンガリー北部(スロバキア)など、面積で72%、人口で64%を失い、ハンガリー人の全人口の半数ほどがハンガリーの国外に取り残された。領土を失った反動、周囲の旧連合国からの孤立などの要因から次第に右傾化した。

1930年代後半からはナチス・ドイツと協調するようになり、1938年ミュンヘン協定、ハンガリーのカルパト・ウクライナへの侵攻(英語版)[注釈 2]1939年のスロバキア・ハンガリー戦争(英語版)、 2度のウィーン裁定などで一部領土を回復した。第二次世界大戦では領域拡大とナチス・ドイツからの圧迫を受けて枢軸国に加わり独ソ戦などで戦ったが、戦局は次第に劣勢となり、1944年にはホルティは枢軸国からの離脱を目指すが、ナチス・ドイツ軍と矢十字党によるクーデター(パンツァーファウスト作戦)で阻止されて失脚した。かわって矢十字党の国民統一政府が成立、1945年5月8日敗戦まで枢軸国として戦うことになった。一方でソビエト連邦軍の占領区域では、軍の一部や諸政党が参加したハンガリー臨時国民政府が樹立され、戦後ハンガリー政府の前身となった。1945年4月4日には、ハンガリー全土からドイツ軍が駆逐され、ナチス・ドイツの崩壊とともに残存していたハンガリー軍部隊も降伏した。
戦後から共産主義政権時代(1946年 - 1989年)[ソースを編集]首都ブダペストを制圧するソ連軍ハンガリー動乱ヴィリー・シュトフカーダール・ヤーノシュ(1958年、東ベルリン)

1946年2月1日には王制が廃止され、ハンガリー共和国(第二共和国)が成立した。しかし、ソ連の占領下に置かれたハンガリーでは1ペンゲー紙幣まで発行される史上最悪のハイパーインフレーションが起きるなど政府に統制力はなく、共産化の影響力が次第に高まりつつあった。

1947年2月にはパリ条約によって連合国と講和し、占領体制は一応終結したがソ連軍はそのままハンガリーに駐留し続けることになった。ハンガリー共産党は対立政党の影響力を徐々に削減する戦術で権力を掌握し、1949年ハンガリー人民共和国が成立した。ハンガリー共産党が合同したハンガリー勤労者党による一党独裁国家としてソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)の衛星国となり、冷戦体制の中では東側の共産圏に属した。

共和国成立直後より国民への統制は厳しいものとなり、1949年時点から他の衛星国に先駆けて西側諸国(オーストリア)国境に鉄条網の障壁が築かれた[6]。こうした共産主義体制に対する反発も根強く1956年にはハンガリー動乱が起こったが、ソ連軍に鎮圧された。勤労者党はハンガリー社会主義労働者党に再編され、ソ連の強い影響を受けながらもカーダール・ヤーノシュによるグヤーシュ・コミュニズムと呼ばれる比較的穏健な政策がとられた。


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