ハンガリー
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ハンガリー(ハンガリー語: Magyarorszag)は、中央ヨーロッパ共和制国家。西にオーストリアスロベニア、北にスロバキア、東にウクライナルーマニア、南にセルビア、南西にクロアチアに囲まれた内陸国。首都はブダペストである。基本的には中欧とされるが、歴史的には東欧に分類されたことがある。

国土の大部分はなだらかな丘陵で、ドナウ川などに潤される東部・南部の平野部には肥沃な農地が広がる[3]
国名

正式名称はハンガリー語で Magyarorszag [?m???rorsa??] ( 音声ファイル)。カタカナの大まかな発音は「マジャロルサーグ」。通称、Magyar [?m???r] ( 音声ファイル)(マジャル)。

日本語の表記はハンガリーであるが、20世紀中盤まではハンガリアと表記する例も散見された。漢字表記では洪牙利で、洪と略される。中国語では、ハンガリーのフン族語源説が伝えられて以降、フン族と同族といわれる匈奴から、匈牙利と表記するようになった。

ハンガリー語で「ハンガリー」もしくは「ハンガリー人」を指す名詞「Magyar」は、日本の教科書などにおいて「マジャール」と誤ってカタカナ表記されているものが見られるが、どの母音も伸ばさずに「マジャル」と表記・発音するのが正しいカタカナ表記となる。ハンガリー語では長母音の場合は母音字にエーケゼット[注釈 1]をつける規則があるため、そうでない場合は長母音ではない(「Magyar」であって「Magyar」でないため、長母音として発音しないのが正しい)。

歴史上、ハンガリー王国多民族国家であり、今日のハンガリー人のみで構成されていたわけではなかった。そのため、その他の民族とハンガリー民族を特に区別する際に「マジャル人」という表現が用いられることがある。

「ハンガリー」の語源として一般に認められているのは、俗説にある「フン族」ではなく、7世紀のテュルク系オノグル (Onogur) という語であり、十本の矢(十部族)を意味する。これは初期のハンガリー人がマジャル人7部族とハザール3部族の連合であったことに由来する。「ウンガーン」(: Ungarn)、「ウンガリア」(: Ουγγαρ?α)に見られるように、もともとは語頭のhがなかった。

2012年1月1日より新たな憲法ハンガリー基本法」が施行され、国名が変更された[4]

1920年 - 1946年 ハンガリー王国(Magyar Kiralysag [?m???r ?kir???j?????](マジャル・キラーイシャーグ))

1946年 - 1949年 ハンガリー共和国(Magyar Koztarsasag [?m???r ?kost???r???????](マジャル・ケスタールシャシャーグ)

1949年 - 1989年 ハンガリー人民共和国(Magyar Nepkoztarsasag [?m???r ?ne??pkost???r???????] (マジャル・ネープケスタールシャシャーグ))

1989年 - 2011年 ハンガリー共和国(Magyar Koztarsasag [?m???r ?kost???r???????](マジャル・ケスタールシャシャーグ))

2012年 - ハンガリー(Magyarorszag [?m???rors????](マジャル・オルサーグ))

歴史詳細は「ハンガリーの歴史」を参照

ハンガリーの国土はハンガリー平原といわれる広大な平原を中心としており、古来さまざまな民族が侵入し、定着してきた。

古代にはパンノニアと呼ばれ、パンノニア族・ダキア人などが住んでいた。紀元前1世紀にはローマに占領され、属州イリュリクムに編入。1世紀中ごろ、属州パンノニアに分離された。4世紀後半にはフン族が侵入、西暦433年に西ローマ帝国によりパンノニアの支配を認められ、フン族によってハンガリーを主要領土(一部現在のブルガリア・ルーマニアを含む)とする独立国家が初めて誕生した。

その後、フン族はアッティラの時代に現在のハンガリーだけではなくローマ帝国の一部も支配下に収めたが、アッティラが40歳で死亡したあと、後継者の不在によりフン族は分裂。結果的に6世紀にはアヴァールの侵入を許す。その後、8世紀にはアヴァールを倒したフランク王国の支配下に移るが、フランク王国はほどなく後退し、9世紀にはウラル山脈を起源とするマジャル人が移住してきた。
ハンガリー王国時代(1000年 - 1918年)12世紀ハンガリー王国

10世紀末に即位したハンガリー人の君主イシュトヴァーン1世は、西暦1000年キリスト教に改宗し、西ヨーロッパカトリック諸王国の一員であるハンガリー王国アールパード朝)を建国した。ハンガリー王国はやがてトランシルヴァニアヴォイヴォディナクロアチアダルマチアなどを広く支配する大国に発展する。13世紀にはモンゴル帝国軍の襲来(モヒの戦い)を受け大きな被害を受けた。14世紀から15世紀ごろには周辺の諸王国と同君連合を結んで中央ヨーロッパの強国となった[5]

1396年オスマン帝国とのニコポリスの戦いで敗北。フス戦争1419年 - 1439年)。15世紀後半からオスマン帝国の強い圧力を受けるようになった。1526年には、モハーチの戦いに敗れ、国王ラヨシュ2世が戦死した。1541年ブダが陥落し、その結果、東南部と中部の3分の2をオスマン帝国(オスマン帝国領ハンガリー)、北西部の3分の1をハプスブルク家オーストリアによって分割支配され(王領ハンガリー)、両帝国のぶつかりあう最前線となった。

三十年戦争1618年 - 1648年)には、プロテスタント側にトランシルヴァニア公国が、カトリック側に王領ハンガリーが分裂して参加した。

1683年第二次ウィーン包囲に敗北したオスマン帝国が軍事的に後退すると、1699年カルロヴィッツ条約で、ハンガリーおよびハンガリー王国領のクロアチアやトランシルヴァニアはオーストリアに割譲された。ハンガリーにとっては支配者がハプスブルク家に変わっただけであり、たびたび独立を求める運動が繰り返された。オーストリア=ハンガリー帝国におけるハンガリー(赤、1914年

1848年3月革命では、コッシュート・ラヨシュが指導した独立運動こそロシア帝国軍の介入により失敗したが、オーストリアに民族独立運動を抑えるための妥協を決断させ、1867年キエッジェズィーシュ(和協)が結ばれた。これにより、ハプスブルク家はオーストリア帝国とハンガリー王国で二重君主として君臨するが、両国は外交などを除いて別々の政府を持って連合するオーストリア=ハンガリー帝国となった。


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