ハンガリー社会主義労働者党
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これらの改革は1973年にソビエト連邦の圧力によって後退を余儀なくされ、ニエルシュらも解任・左遷されたが、その処遇は「プラハの春」後に改革派党員を追放したチェコスロバキア共産党の「正常化」に比べれば穏やかなものであった[5]西側への旅行も他の東側諸国に比べると比較的自由であり、1980年には380万人が西側へ旅行している[6]検閲も比較的緩やかであり、閣僚の指名は形式的ながら中央委員会政治局の決定だけでなく大衆組織「愛国人民戦線」と協議をして決定するなどの改革が行われた[6]

1988年にカーダールが引退し、穏健改革派のグロース・カーロイが書記長に就任した。同時に政治局にはニェルシュが復帰し、ネーメト・ミクローシュ(1988年から首相)、ポジュガイ・イムレらの改革派も政治局入りした。これ以降ポジュガイら改革派によってソ連のゴルバチョフ政権によるペレストロイカの流れを受けて、政治改革が急速に進められた。1989年2月には民主化の一環として党の指導性の放棄、党と政府の分離を決定し、5月にはオーストリアとの国境にあった鉄条網の撤去などの改革・開放を行った。6月にはハンガリー動乱で処刑されたナジ・イムレ元首相の名誉回復と改葬を行った。さらに6月23-24日の中央委員会で複数政党制の導入を決定して一党独裁を放棄し、1989年10月の党大会では「党の国家政党としての歴史は終わった」と宣言して「ハンガリー社会党」へ改名し、1990年以降は欧州統合を推進する社会民主主義政党へと転換した[7]

その一方で社会党への改組に反対した保守・中間派の一部は、新たに同名の「ハンガリー社会主義労働者党」を結成した。この党は1990年の選挙で議席を失い。以降議席獲得に失敗している。その後1993年に赤い星の使用が禁じられたことに伴い「労働者党」と党名変更し、それまで使用していたシンボルマークも放棄された。2005年にはハンガリー共産主義労働者党と改称するものの、2013年にはこれに加えて「共産主義」の党名の使用が禁じられ、「ハンガリー労働者党(ハンガリー語版)」に改名した。同党は反EU、反ユーロ、反NATOのスタンスを取っている。
歴代指導者


ハンガリー勤労者党(1948年 - 1956年)
代第一書記在任期間備考
01
ラーコシ・マーチャーシュ
Rakosi Matyas1948年6月12日
- 1956年7月18日7000800000000000000?8年 + 36日1953年6月28日までは書記長
02ゲレー・エルネー
Ger? Ern?1956年7月18日
- 1956年10月25日99日
03カーダール・ヤーノシュ
Kadar Janos1956年10月25日
- 1956年10月31日6日

ハンガリー社会主義労働者党(1956年 - 1989年)
代書記長在任期間備考
01
カーダール・ヤーノシュ
Kadar Janos1956年10月31日
- 1988年5月22日7001310000000000000?31年 + 204日第6・8代閣僚評議会議長を兼任。
02グロース・カーロイ(英語版)
Grosz Karoly1988年5月22日
- 1989年6月26日7000100000000000000?1年 + 35日カーダールの辞任により閣僚評議会議長から移動
(閣僚評議会議長にはネーメト・ミクローシュ
政治執行委員会議長
代政治執行委員会議長在任期間備考
01ニェルシュ・レジェー(英語版)
Nyers Rezs?1989年6月26日
- 1989年10月7日103日後にハンガリー社会党党首

脚注^ munkaspart [?mu??k????p??rt] の実際の発音は「ムンカーシュパルト」。
^ 柴宜弘 (監修), 伊東孝之, 萩原直, 直野敦, 南塚信吾著『東欧を知る事典』(2001年 平凡社)P395
^ 『東欧を知る事典』P396
^ 三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』(岩波新書 1992年 ISBN 4004302560)P47-48


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