1946年12月、「旧王国のホルティ摂政派将校の秘密組織による陰謀」が発覚したとして、独立小農業者党の幹部が次々と逮捕されはじめた。1947年5月30日には党首で首相のナジ・フェレンツ(英語版)が亡命に追い込まれた[8]。ディンニェーシュ・ラヨシュが後継首相となったものの、さらにドビ・イシュトヴァーンら左派が分裂し、小農業者党は零落した。8月4日、大統領ティルディ・ゾルターンは汚職の疑いをかけられて辞任し、共産党の幹部サカシチ・アールパードが大統領となった。共産党は8月31日に行われた選挙によって第一党となった。しかしこの時点でも共産党の得票は全体の22%であり、与党である左派ブロック全体をあわせても61%にとどまった。しかしこの時点で勤労者党の優位は不動のものとなり、事実上の勤労者党による独裁体制が確立された[7]。1948年6月12日、社会民主党は幹部を大量に除名し、ハンガリー勤労者党と改称した共産党に合流した。この時点での勤労者党の党員はハンガリー人口の9分の1である100万人であった[7]。
1949年になると、東欧諸国ではヨシフ・スターリンによるヨシップ・ブロズ・チトー批判の影響を受けた「チトー狩り」が始まった。ハンガリーでも書記長ラーコシは政敵をチトー派として粛清していった。9月には党内ナンバー2であったライクも、彼自身が設立したAVOによって逮捕され、10月に処刑された。こうして勤労者党の上層部は「モスクワ帰り」によって占められるようになり、ソ連化が進んでいった[9]。 1949年8月23日、ハンガリー人民共和国が成立し、ハンガリー人民共和国憲法が制定された。大統領制は廃止され、大統領評議会議長 ハンガリー動乱によって体制が動揺した1956年11月、カーダール・ヤーノシュによって勤労者党は「ハンガリー社会主義労働者党」として再編成された[10]。 社会主義労働者党の書記長となったカーダールはナジ・イムレを死刑にし、一党独裁制を敷きながらも、動乱で国民と政府の間に生じた溝を埋めることに腐心し、「我々の敵でない者は味方である」と述べて政治犯の釈放やローマ教皇庁との和解を進め[11]、共産圏の中では比較的穏健な統治を行った。1966年にはニエルシュ・レジエ
スターリン主義時代(1949年 - 1956年)
1956年の革命詳細は「ハンガリー動乱」を参照
カーダール時代
これらの改革によってハンガリー経済は発展し、国民の所得も増加したが[13]、1973年にソビエト連邦の圧力によって後退を余儀なくされ、ニエルシュらも解任・左遷された。しかし、その処遇は「プラハの春」後に改革派党員を追放したチェコスロバキア共産党の「正常化」に比べれば穏やかなものであった[14]。