1949年になると、東欧諸国ではヨシフ・スターリンによるヨシップ・ブロズ・チトー批判の影響を受けた「チトー狩り」が始まった。ハンガリーでも書記長ラーコシは政敵をチトー派として粛清していった。9月には党内ナンバー2であったライクも、彼自身が設立したAVOによって逮捕され、10月に処刑された。こうして勤労者党の上層部は「モスクワ帰り」によって占められるようになり、ソ連化が進んでいった[9]。 1949年8月23日、ハンガリー人民共和国が成立し、ハンガリー人民共和国憲法が制定された。大統領制は廃止され、大統領評議会議長 ハンガリー動乱によって体制が動揺した1956年11月、カーダール・ヤーノシュによって勤労者党は「ハンガリー社会主義労働者党」として再編成された[10]。 社会主義労働者党の書記長となったカーダールはナジ・イムレを死刑にし、一党独裁制を敷きながらも、動乱で国民と政府の間に生じた溝を埋めることに腐心し、「我々の敵でない者は味方である」と述べて政治犯の釈放やローマ教皇庁との和解を進め[11]、共産圏の中では比較的穏健な統治を行った。1966年にはニエルシュ・レジエ
スターリン主義時代(1949年 - 1956年)
1956年の革命詳細は「ハンガリー動乱」を参照
カーダール時代
これらの改革によってハンガリー経済は発展し、国民の所得も増加したが[13]、1973年にソビエト連邦の圧力によって後退を余儀なくされ、ニエルシュらも解任・左遷された。しかし、その処遇は「プラハの春」後に改革派党員を追放したチェコスロバキア共産党の「正常化」に比べれば穏やかなものであった[14]。また、「新経済メカニズム」も完全には廃止されず、1970年代後半の第二次石油危機以降は再び改革が進められるようになり、「社会主義市場経済」が目指されるようになった。政治的にも地方自治の拡大、党の指導性の限定化などの施策が行われた。1982年にはIMFに加盟、1983年には再び議会選挙が複数候補制となり、1985年には社会主義労働者党の党員以外からも国会議員に当選する者が出るようになった[15]。
西側への旅行も他の東側諸国に比べると比較的自由であり、1980年には380万人が西側へ旅行している[16]。検閲も比較的緩やかであり、閣僚の指名は形式的ながら中央委員会政治局の決定だけでなく大衆組織「愛国人民戦線」と協議をして決定するなどの改革が行われた[16]。
民主化詳細は「ハンガリー民主化運動」を参照
このように他の中東欧の社会主義国に比べると市場経済化・政治の自由化を比較的進めていたハンガリーであったが、1980年代後半になると、社会主義労働者党による一党独裁の限界が明らかとなった。過度な投資が対外債務の増加を生んで経済が失速する一方、高齢になったカーダールは保守化し、これ以上の経済の自由化には消極的になっていた。1987年、カーダールは対外債務の返済に必要な財源を確保すべく、経済の自由化で生じた富裕層に対する増税を行おうとしたが、この法案は国会で否決されてしまった。社会主義体制になってから初めて政府提出法案が議会によって覆されるという事態が生じたのである。これによって保守派とカーダールは信用を失い、1988年5月、カーダールは引退した[17]。
カーダールの後を継いで穏健改革派のグロース・カーロイが書記長に就任し、同時に政治局にはニエルシュが復帰し、ネーメト・ミクローシュ(1988年から首相)、ポジュガイ・イムレらの急進改革派も政治局入りした。ソ連のゴルバチョフ政権によるペレストロイカの流れを受けて、改革が進められることになったが、グロースはあくまでも一党制を維持し、党内の民主化を進めることで改革を達成できると考えていた[18]。