1949年8月23日、ハンガリー人民共和国が成立し、ハンガリー人民共和国憲法が制定された。大統領制は廃止され、大統領評議会議長
(ハンガリー語版、英語版)が国家元首となった。ラーコシは1952年にドビのあとをうけて首相となるなど、事実上の最高実力者としてハンガリーを支配したが、スタハーノフ運動を模倣した重工業重視の経済再建ははかばかしく進まなかった。1953年3月にスターリンが死亡すると、彼の崇拝者であったラーコシの立場はきわめて微妙なものとなった。6月、ラーコシはモスクワに呼び出され、首相の地位を政治局員ナジ・イムレに譲らされた。ナジは重工業偏重を修正する経済改革を行い、失脚していたカーダール・ヤーノシュ元内相を復権させるなど、ラーコシ時代の政策を修正していった。党幹部やラーコシは反発し、1955年4月にナジを失脚させてラーコシ派のヘゲドゥシュ・アンドラーシュ(英語版)を首相とした。ハンガリー動乱によって体制が動揺した1956年11月、カーダール・ヤーノシュによって勤労者党は「ハンガリー社会主義労働者党」として再編成された[10]。
社会主義労働者党の書記長となったカーダールはナジ・イムレを死刑にし、一党独裁制を敷きながらも、動乱で国民と政府の間に生じた溝を埋めることに腐心し、「我々の敵でない者は味方である」と述べて政治犯の釈放やローマ教皇庁との和解を進め[11]、共産圏の中では比較的穏健な統治を行った。1966年にはニエルシュ・レジエ
書記らによって「新経済メカニズム」が導入され、市場経済の一部導入などを進めたほか、同年11月には国民議会選挙の候補者を複数候補制にするなどの政治改革も進められた[12]。これらの改革によってハンガリー経済は発展し、国民の所得も増加したが[13]、1973年にソビエト連邦の圧力によって後退を余儀なくされ、ニエルシュらも解任・左遷された。しかし、その処遇は「プラハの春」後に改革派党員を追放したチェコスロバキア共産党の「正常化」に比べれば穏やかなものであった[14]。また、「新経済メカニズム」も完全には廃止されず、1970年代後半の第二次石油危機以降は再び改革が進められるようになり、「社会主義市場経済」が目指されるようになった。政治的にも地方自治の拡大、党の指導性の限定化などの施策が行われた。1982年にはIMFに加盟、1983年には再び議会選挙が複数候補制となり、1985年には社会主義労働者党の党員以外からも国会議員に当選する者が出るようになった[15]。
西側への旅行も他の東側諸国に比べると比較的自由であり、1980年には380万人が西側へ旅行している[16]。検閲も比較的緩やかであり、閣僚の指名は形式的ながら中央委員会政治局の決定だけでなく大衆組織「愛国人民戦線」と協議をして決定するなどの改革が行われた[16]。
民主化詳細は「ハンガリー民主化運動」を参照
このように他の中東欧の社会主義国に比べると市場経済化・政治の自由化を比較的進めていたハンガリーであったが、1980年代後半になると、社会主義労働者党による一党独裁の限界が明らかとなった。過度な投資が対外債務の増加を生んで経済が失速する一方、高齢になったカーダールは保守化し、これ以上の経済の自由化には消極的になっていた。1987年、カーダールは対外債務の返済に必要な財源を確保すべく、経済の自由化で生じた富裕層に対する増税を行おうとしたが、この法案は国会で否決されてしまった。社会主義体制になってから初めて政府提出法案が議会によって覆されるという事態が生じたのである。これによって保守派とカーダールは信用を失い、1988年5月、カーダールは引退した[17]。
カーダールの後を継いで穏健改革派のグロース・カーロイが書記長に就任し、同時に政治局にはニエルシュが復帰し、ネーメト・ミクローシュ(1988年から首相)、ポジュガイ・イムレらの急進改革派も政治局入りした。ソ連のゴルバチョフ政権によるペレストロイカの流れを受けて、改革が進められることになったが、グロースはあくまでも一党制を維持し、党内の民主化を進めることで改革を達成できると考えていた[18]。一方、ポジュガイらは複数政党制の導入など、急進的な改革を志向していた。1988年10月には会社法が制定されて国有企業の株式会社化が行われ、1989年1月には集会・結社の自由化、政党結成の容認などが進められた[19]。
1989年になるとポジュガイら改革派によって政治改革が急速に進められた。1989年2月には民主化の一環として党の指導性の放棄、党と政府の分離を決定し[20]、4月には民主集中制の放棄が決定され、5月にはオーストリアとの国境にあった鉄条網の撤去などの改革・開放を行った[21]。