ハワイ準州
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黒人  1.6%
混血  23.6%

州名の由来

ハワイ語の Hawaiʻi は原始ポリネシア語の Sawaiki から派生したものであり、「母国」を意味するように内的再構されている[1]。Hawaiʻi と同根語はポリネシアのマオリ語(Hawaiki)、ラロトンガ語(?Avaiki)およびサモア語(Savaiʻi)にも見られる。

言語学者のプクイとエルバートによれば[2]、ポリネシアのどこでも、Hawaiʻi あるいはその類似語は地下世界または祖先の家の名前であるが、ハワイでは意味を持たない[3]
歴史詳細は「ハワイの歴史」を参照
先史時代

ハワイ諸島へ人類が移民してきたのは、4世紀から8世紀ごろ[4] で、南方のテ・ヘヌア・エナナ(マルケサス諸島)からと考えられている。この際に使用されたと考えられているのが、双胴の航海カヌーと、「スター・ナヴィゲーション」と呼ばれるリモート・オセアニア海域で広く用いられた航法技術である。ちなみにハワイへの移民がテ・ヘヌア・エナナから行われたとの説はビショップ博物館所属の日本人研究者、篠遠喜彦博士の、「釣り針編年研究」が基礎となっている[4]
ハワイ王国時代ハワイ王カラニオプウ、キャプテン・クックに贈り物を持ってきている。クックの船に乗船していた画家ジョン・ウェバーが描いた。

1778年:イギリス人キャプテン・クックが来航したのをきっかけに、白人との接触が始まる。

1794年:当時欧州で「サンドイッチ諸島」と呼ばれていたハワイに外国人が約400人、うち30 - 40人が中国系であった[5]

1795年カメハメハ1世(大王)が白人たちが持ち込んだ銃器を利用し、3つの王国が分立していたハワイ諸島を統一し、ハワイ王国を建国する。

1802年:中国(清国)人が、カメハメハ王から許可を得てサトウキビ栽培に着手[6]

1820年カメハメハ2世の治下、多くの宣教師アメリカから移住し、キリスト教文化がハワイに定着していく。またアメリカ人によるプランテーション農場のための土地の収奪が始まる。

現在もハワイの女性の正装であるムームーは、上半身裸が普通であった往時のハワイの女性が、キリスト教的に「淫ら」だとして、宣教師が普及させたものと@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}言われている。[誰?]


1840年:憲法を公布、立憲君主制となる。

1843年イギリス(英国)がハワイの領有を宣言。

1849年フランスがハワイの領有を宣言。ハワイをめぐる列強の抗争は激しくなる。

1850年:中国(清国)からの組織的な移民が始まる。

1868年明治元年):横浜から、日本人移民148名がハワイに移住した。これは貿易商ユージン・ヴァン・リードの斡旋による移民であった[6]。明治新政府はこれを公式に認めておらず、移民たちはパスポートすら持っていない、いわば非合法状態であり、密出国というべきものであった。このときの移民はのちに「元年者」と呼ばれる。

1871年日布修好通商条約を締結。

1881年カラカウア王が来日。明治天皇と会見し、日本政府との間で正式に移民協定が結ばれる。また日本にとってハワイ王朝は、不平等条約改正を約した初の海外国家元首賓客であった[5]。このとき、アメリカの政治的経済的侵略に危機感を抱いていたカラカウア王は、カイウラニ王女と山階宮(後の東伏見宮依仁親王)との政略結婚による、ハワイ王室と日本皇室との間の関係強化および連邦制を提案したが、アメリカとの関係悪化を懸念する日本政府に断られた。

1882年:中国人排斥法[注釈 2] がアメリカで成立。翌年(1883年)には連邦議会を通過する。

1885年:初の官約移民が日本からハワイに渡る。

1886年:契約労働による中国人移民の流入は、ほぼ停止する[6]

1891年:カラカウア王没後、リリウオカラニ女王が即位。
リリウオカラニ女王はハワイの代表曲アロハオエの作者として知られる
アメリカによる併合「ハワイ併合」も参照ハワイ王政打倒時の上陸部隊、1893年1月ホノルルにあるイオラニ宮殿、元はハワイ王の住まい。ハワイ共和国の議事堂だった。

1893年:リリウオカラニ女王がアメリカとの不平等条約を撤廃する動きを見せると、これに反発したアメリカ人農場主らが海兵隊160名の支援を得てクーデターを起こし、王政を打倒して「臨時政府」を樹立。女王はイオラニ宮殿に軟禁される。このとき、日本は国王派から依頼を受け、邦人保護を理由に東郷平八郎率いる軍艦「浪速」ほか2隻をハワイに派遣し、ホノルル軍港に停泊させてクーデター勢力を威嚇した[7]。ハワイ在留日本人も女王支持派に同情的であった。「臨時政府」はアメリカに併合を求めるが、就任直後の大統領グロバー・クリーブランド(当時)は海外進出に消極的な政策をとっており、併合を渋る。結局クリーブランドは大統領任期中、ハワイを併合しなかった。

1894年7月4日:アメリカによる併合に時間が掛かると判断した臨時政府は、新憲法を発布しハワイ共和国を宣言した。大統領に就任したサンフォード・ドールは、最初で最後のハワイ共和国大統領となった。

1895年1月9日:クリーブランド大統領が、海底ケーブルについて米連邦議会宛にメッセージを送った。発端は、英国政府のハワイ政府に対する「カナダとオーストラリアを結ぶケーブルの中継地として、ハワイの無人島を借りたい」という要望であった。英米政府間交渉が済んで合意文書の原案も出来上がっており、クリーブランド大統領は連邦議会に承認を求めたが[8]、アメリカ自身が敷設するべきだと考えた連邦議会は黙殺した。

1895年1月16日:ハワイ人王政派が武装蜂起したが、短期間で鎮圧、虐殺される。この武装蜂起を支援したとして、リリウオカラニ女王が逮捕・幽閉される。原住民の大虐殺ののち、ハワイを完全に乗っ取る。

1895年1月22日:リリウオカラニ女王廃位により、ハワイ王国が滅亡。

1898年8月12日:米西戦争でハワイの地政学的重要性を認識したアメリカは[9]、ハワイ共和国を併合、米自治領ハワイ準州(Territory of Hawaii)となる。アメリカの大統領(当時)は、前任者と対照的に帝国主義政策を推し進めたウィリアム・マッキンリーである。以後ハワイはアメリカの太平洋支配の拠点となり、オアフ島のパールハーバー(真珠湾)に大海軍基地が建設された(現在もアメリカ海軍太平洋艦隊の基地がある)。

1920年:オアフ島第二次大ストライキ。日本人労働者も、フィリピン人労働者と団結し活躍した[9]


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