言語学者のプクイとエルバートによれば[2]、ポリネシアのどこでも、Hawaiʻi あるいはその類似語は地下世界または祖先の家の名前であるが、ハワイでは意味を持たない[3]。 ハワイ諸島へ人類が移民してきたのは、4世紀から8世紀ごろ[4] で、南方のテ・ヘヌア・エナナ(マルケサス諸島)からと考えられている。この際に使用されたと考えられているのが、双胴の航海カヌーと、「スター・ナヴィゲーション」と呼ばれるリモート・オセアニア海域で広く用いられた航法技術である。ちなみにハワイへの移民がテ・ヘヌア・エナナから行われたとの説はビショップ博物館所属の日本人研究者、篠遠喜彦博士の、「釣り針編年研究」が基礎となっている[4]。
歴史詳細は「ハワイの歴史」を参照
先史時代
ハワイ王国時代ハワイ王カラニオプウ、キャプテン・クックに贈り物を持ってきている。クックの船に乗船していた画家ジョン・ウェバーが描いた。
1778年:イギリス人キャプテン・クックが来航したのをきっかけに、白人との接触が始まる。
1794年:当時欧州で「サンドイッチ諸島」と呼ばれていたハワイに外国人が約400人、うち30 - 40人が中国系であった[5]。
1795年:カメハメハ1世(大王)が白人たちが持ち込んだ銃器を利用し、3つの王国が分立していたハワイ諸島を統一し、ハワイ王国を建国する。
1802年:中国(清国)人が、カメハメハ王から許可を得てサトウキビ栽培に着手[6]。
1820年:カメハメハ2世の治下、多くの宣教師がアメリカから移住し、キリスト教文化がハワイに定着していく。またアメリカ人によるプランテーション農場のための土地の収奪が始まる。
現在もハワイの女性の正装であるムームーは、上半身裸が普通であった往時のハワイの女性が、キリスト教的に「淫ら」だとして、宣教師が普及させたものと@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}言われている。[誰?]
1840年:憲法を公布、立憲君主制となる。
1843年:イギリス(英国)がハワイの領有を宣言。
1849年:フランスがハワイの領有を宣言。ハワイをめぐる列強の抗争は激しくなる。
1850年:中国(清国)からの組織的な移民が始まる。
1868年(明治元年):横浜から、日本人移民148名がハワイに移住した。これは貿易商ユージン・ヴァン・リードの斡旋による移民であった[6]。明治新政府はこれを公式に認めておらず、移民たちはパスポートすら持っていない、いわば非合法状態であり、密出国というべきものであった。このときの移民はのちに「元年者」と呼ばれる。
1871年:日布修好通商条約を締結。
1881年:カラカウア王が来日。明治天皇と会見し、日本政府との間で正式に移民協定が結ばれる。また日本にとってハワイ王朝は、不平等条約改正を約した初の海外国家元首賓客であった[5]。このとき、アメリカの政治的経済的侵略に危機感を抱いていたカラカウア王は、カイウラニ王女と山階宮(後の東伏見宮依仁親王)との政略結婚による、ハワイ王室と日本皇室との間の関係強化および連邦制を提案したが、アメリカとの関係悪化を懸念する日本政府に断られた。
1882年:中国人排斥法[注釈 2] がアメリカで成立。翌年(1883年)には連邦議会を通過する。
1885年:初の官約移民が日本からハワイに渡る。
1886年:契約労働による中国人移民の流入は、ほぼ停止する[6]。
1891年:カラカウア王没後、リリウオカラニ女王が即位。
リリウオカラニ女王はハワイの代表曲アロハオエの作者として知られる
アメリカによる併合「ハワイ併合」も参照ハワイ王政打倒時の上陸部隊、1893年1月ホノルルにあるイオラニ宮殿、元はハワイ王の住まい。