ハワイ州
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ハワイ州(ハワイしゅう、: State of Hawaii [h??wa?.i] ( 音声ファイル) 、ハワイ語: Hawai?i[注釈 1])は、太平洋に位置するハワイ諸島にあるアメリカ合衆国州都はオアフ島のホノルル市である。アメリカ合衆国50州の中で最後に加盟した州である。日本人や日系人の間では、「布哇」の表記が当てられる場合もある。海域として定められたポリネシアの北端でもある。

ハワイ島マウイ島オアフ島カウアイ島モロカイ島ラナイ島ニイハウ島カホオラウェ島の8つの島と100以上の小島からなるハワイ諸島のうち、ミッドウェー環礁を除いたすべての島が、ハワイ州に属している。北西ハワイ諸島の北西端からハワイ諸島の南東端のハワイ島まで、全長1,500マイル(2,400キロ)にわたっている。州全体が島だけで構成されているアメリカ合衆国で唯一の州である。

アメリカ合衆国本土の南西、日本の南東、オーストラリアの北東と、太平洋の中央に位置し、地理的にも民族的にも近いポリネシアでは最も北にある列島で構成されている。その自然の多様な景観、暖かい熱帯性気候、豊富な公共の海浜と大洋に取り囲まれていること、および活火山の活動があることで、観光客、サーファー、生物学者、火山学者などに人気のある目的地になっている。日本で最も人気な海外リゾート地のひとつ。独特の文化がある他に太平洋の中心にあることで、北アメリカアジアの影響も多く受けている。140万人を超える人口のほか、常に観光客やアメリカ軍軍事関係者が滞在している。常住人口の約7割はオアフ島に集中している。

家庭で話される言語(ハワイ州) 2010

英語  74.41%
タガログ語  4.52%
イロカノ語  4.06%
日本語  3.95%
ハワイ語除く大洋州諸語  2.61%
スペイン語  2.01%
中国語  1.54%
ハワイ語  1.50%

人種構成(ハワイ州) 2010

アジア系  38.6%
白人  22.7%
先住ハワイ人・太平洋諸島系  10.0%
ヒスパニック  8.9%
アメリカ先住民  0.3%
黒人  1.6%
混血  23.6%

州名の由来

ハワイ語の Hawaiʻi は原始ポリネシア語の Sawaiki から派生したものであり、「母国」を意味するように内的再構されている[1]。Hawaiʻi と同根語はポリネシアのマオリ語(Hawaiki)、ラロトンガ語(?Avaiki)およびサモア語(Savaiʻi)にも見られる。

言語学者のプクイとエルバートによれば[2]、ポリネシアのどこでも、Hawaiʻi あるいはその類似語は地下世界または祖先の家の名前であるが、ハワイでは意味を持たない[3]
歴史詳細は「ハワイの歴史」を参照
先史時代

ハワイ諸島へ人類が移民してきたのは、4世紀から8世紀ごろ[4] で、南方のテ・ヘヌア・エナナ(マルケサス諸島)からと考えられている。この際に使用されたと考えられているのが、双胴の航海カヌーと、「スター・ナヴィゲーション」と呼ばれるリモート・オセアニア海域で広く用いられた航法技術である。ちなみにハワイへの移民がテ・ヘヌア・エナナから行われたとの説はビショップ博物館所属の日本人研究者、篠遠喜彦博士の、「釣り針編年研究」が基礎となっている[4]
ハワイ王国時代ハワイ王カラニオプウ、キャプテン・クックに贈り物を持ってきている。クックの船に乗船していた画家ジョン・ウェバーが描いた。

1778年:イギリス人キャプテン・クックが来航したのをきっかけに、白人との接触が始まる。

1794年:当時欧州で「サンドイッチ諸島」と呼ばれていたハワイに外国人が約400人、うち30 - 40人が中国系であった[5]

1795年カメハメハ1世(大王)が白人たちが持ち込んだ銃器を利用し、3つの王国が分立していたハワイ諸島を統一し、ハワイ王国を建国する。

1802年:中国(清国)人が、カメハメハ王から許可を得てサトウキビ栽培に着手[6]

1820年カメハメハ2世の治下、多くの宣教師アメリカから移住し、キリスト教文化がハワイに定着していく。またアメリカ人によるプランテーション農場のための土地の収奪が始まる。

現在もハワイの女性の正装であるムームーは、上半身裸が普通であった往時のハワイの女性が、キリスト教的に「淫ら」だとして、宣教師が普及させたものと@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}言われている。[誰?]


1840年:憲法を公布、立憲君主制となる。

1843年イギリス(英国)がハワイの領有を宣言。

1849年フランスがハワイの領有を宣言。ハワイをめぐる列強の抗争は激しくなる。

1850年:中国(清国)からの組織的な移民が始まる。

1868年明治元年):横浜から、日本人移民148名がハワイに移住した。これは貿易商ユージン・ヴァン・リードの斡旋による移民であった[6]。明治新政府はこれを公式に認めておらず、移民たちはパスポートすら持っていない、いわば非合法状態であり、密出国というべきものであった。このときの移民はのちに「元年者」と呼ばれる。

1871年日布修好通商条約を締結。

1881年カラカウア王が来日。明治天皇と会見し、日本政府との間で正式に移民協定が結ばれる。また日本にとってハワイ王朝は、不平等条約改正を約した初の海外国家元首賓客であった[5]。このとき、アメリカの政治的経済的侵略に危機感を抱いていたカラカウア王は、カイウラニ王女と山階宮(後の東伏見宮依仁親王)との政略結婚による、ハワイ王室と日本皇室との間の関係強化および連邦制を提案したが、アメリカとの関係悪化を懸念する日本政府に断られた。

1882年:中国人排斥法[注釈 2] がアメリカで成立。翌年(1883年)には連邦議会を通過する。

1885年:初の官約移民が日本からハワイに渡る。


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