ハワイ併合
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カラカウアは、王位を継承してすぐに自分の後継者としてのレレイオホクを指名して国王選挙の前例が繰り返さないよう手をうち[注釈 4]、1874年中にハワイ国王として最初にアメリカ本土を訪れ、貿易関税撤廃相互条約(米布互恵条約(英語版)を締結した。これによりハワイの全ての生産品は非課税でアメリカ合衆国本土への輸出が可能となったが、第4条に「ハワイのいかなる領土もアメリカ以外の他国に譲渡・貸与せず、特権も与えない」との文言が組み込まれ、ハワイのアメリカ傾斜に拍車がかかることとなった[15]。いっぽう、製糖業を支える外国人をハワイ王国の市民として受け入れる政策をとり、これは製糖業を独占していたアメリカ人商人には不評であった[16]。カラカウアはウォルター・マリー・ギブスン(英語版)という人物を政治顧問とし、内閣を指導させた[17]

カラカウアは、1879年ホノルルイオラニ宮殿の建設に着手し、1881年、幼なじみの白人ウィリアム・N・アームストロング(英語版)らを伴って「おしのび」での世界一周旅行をおこなった[16]。カラカウアの世界一周はサンフランシスコにはじまって日本中国シャムシンガポールビルマインドエジプトイタリア、フランス、イギリス、ベルギードイツオーストリアスペインポルトガルとつづいた約10か月の旅であった。その理由は移民の促進交渉と表敬訪問、そして各国の王室を見学することであった[16]。日本では明治天皇に会見し、日本人のハワイ移民促進を要請するとともに、王の姪で王位継承者のカイウラニ王女と皇族のひとり山階宮定磨王(のちの東伏見宮依仁親王)の縁談をもちかけた[18][注釈 5]

米布互恵条約の有効期限が近づいた1883年、アメリカでは互恵条約は合衆国内のコメや砂糖の生産者の利益を損なうとの批判があり、その失効を主張する声もあったが[19]、ジョン・タイラー・モーガン(英語版)上院議員ら帝国主義者によって「その他の、より高次元な益がある」とする更改賛成意見が反対意見を上まわり、従前よりモーガンが主張していた真珠湾の独占使用権を獲得することを条件に1887年11月に条約の更新がなされた[19]。カラカウア王自身はアメリカに真珠湾の独占使用権をあたえることに反対であり、王の妹リリウオカラニも反対したが、アメリカ上院の姿勢は強硬であり、トーマス・H・カーターらの働きかけもあって、7年という期限付きでの独占使用を認めた[15]。ハワイではカラカウアを「アメリカに国益を売りわたす王」として批判も多かったが、カラカウアは砂糖産業の安定こそがハワイの繁栄を保障するという判断にもとづいていたのではないかとする見解がある[12]

1887年、ハワイ王国の野党議員ロリン・A・サーストンが中心となって急進的な改革を志向する秘密結社ハワイアンリーグ(英語版)が結成された。同年6月30日、ハワイアンリーグはハワイの白人市民義勇軍ホノルルライフルズ(英語版)と協力して、首相ウォルター・ギブスンの退陣と新憲法の採択を王に対して要求した。これに対し、カラカウア王はかつて自ら組閣した内閣を解散することで抵抗した。ギブスンは国外退去に処された。

その後、ハワイアンリーグは、ホノルルライフルズなどが起草した新憲法を半ば強引にカラカウアに承認させた。それが1887年7月に採択された、1887年憲法(英語版)(通称「ベイオネット憲法」)である。「ベイオネット」とは「銃剣」を意味し、威嚇のもとに強制的に調印された憲法であった[20]。この憲法はすべてのアジア系移民から一切の投票権を奪い、かつ、投票権の有資格者として収入資産などの一定の基準を設けたため、大多数の先住ハワイ人とごく少数の欧米人から成る貧しい人びとは選挙権を剥奪され、ごく少数のハワイ人エリートや富裕な欧米系住民の発言力が飛躍的に高まった。また、王権は制限され、枢密院や内閣は強い影響力をもつようになった。カラカウアはベイオネット憲法の廃案を画策し[21]1889年には混血ハワイ人で王国の軍人ロバート・ウィリアム・ウィルコックス(英語版)らの抵抗もあったが失敗に終わった。1891年1月20日、カラカウアは志半ばで保養先のサンフランシスコで死去した。

この間、アメリカ本国では1890年連邦議会が新たに関税法案を通過させたため、ハワイの製糖業は大打撃を受けた[22]。ハワイから輸入した砂糖は無関税であったが、アメリカ国内で生産された砂糖には奨励金がつけられたため、ハワイの砂糖生産はふるわなくなり、サトウキビ農園の地価も暴落し農園労働者の賃金も低下、さらには失業者もあらわれた。こうして、あらゆるものが砂糖に依存していたハワイ経済は深刻な不況に陥った[22]。とりわけ、農園を所有して製糖業を経営していた者の多くがアメリカ人であったため、本国の関税法案通過に対して不満をつのらせ、アメリカの保護領となるか、編入してもらうかして事態を解決するよりほかに道はないと考えるようになった[22]玉座にあるリリウオカラニ

1891年1月、カラカウアの後任としてその妹リリウオカラニが王位に就いた。しかし、リリウオカラニの指名した閣僚は再三にわたり入閣を拒否して内閣が機能しないという事態に陥った。1892年11月、ようやく組閣のための閣僚承認がなされて政治危機を脱した[23]

リリウオカラニは山積する問題のうち、財政難打破の対策として宝くじアヘンの売買を認可制とする政策を打ち出したが、これに対しては、アメリカ系白人勢力より道徳的見地からの批判が噴出した[24]。また、ベイオネット憲法に不満を募らせる王党派ハワイ人たちは、1864年の憲法をもとにして女王に多くの権力を集中させる新憲法制定を計画して親米派に対抗しようとした。こうした動きに危機感を覚えたアメリカの駐ハワイ公使ジョン・リービット・スティーブンス(英語版)はロリン・サーストンやサンフォード・ドールらと接触し、ハワイ王国の転覆と暫定政府の樹立を計画した[24]

1892年春、親米派は「併合クラブ」と称する秘密結社をつくった[25]。中心メンバーは、サンフォード・ドール、ロリン・サーストン、W.R.カースル、S.M.デーモンであった[25]
ハワイ事変(ハワイ革命)ハワイ事変(親米派による革命)の舞台となったイオラニ宮殿

1893年1月14日、サーストンらの呼びかけによってホノルルに「公安委員会」と名乗る組織がつくられ、翌15日、「公安委員会」はホノルル市民に対し、ホノルルライフルズ部隊本部で市民集会を開く旨呼びかけた[26]。これに対し、王党派の閣僚は反逆罪の適用を検討したが、衝突を避けるべきとの意見をもつアメリカ系閣僚の声もあり、反対集会をイオラニ宮殿で行うことが決定された[26]。反対集会の目的は「リリウオカラニによる新憲法を公布しない」という声明を発表することによって、これ以上の混乱を防止しようというものであった[26]。リリウオカラニは宮殿外で待機する群衆に、憲法の施行をしばらく延期することを発表した[25]

翌1月16日、ホノルルライフルズで開始された集会でサーストンは女王を糾弾し、自由の獲得を市民に訴えた[26]。この動きに呼応し、スティーブンスは米国軍艦ボストン艦長ギルバート・ウィルツに対し「ホノルルの非常事態を鑑み、アメリカ人の生命および財産の安全確保のため海兵隊の上陸を要請する」と通達した。同日午後5時、将校を含む武装したアメリカ海兵隊164名がホノルル港へ上陸した。

1月17日、サンフォード・ドールは新政府樹立の準備のため、判事を辞任した。午後2時、政府庁舎に「公安委員会」一同が集結すると、ヘンリー・E・クーパー(英語版)によりハワイ王国の終結および暫定政府の樹立が宣言された[27]。ハワイ王国の政府庁舎および公文書館はホノルルライフルズによって占拠され、戒厳令が布かれた。ドールは暫定政府代表として各国の外交使節団およびリリウオカラニに対し、暫定政府の樹立を通達した。


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