1919年8月24日に、ロスアンジェルスの写真撮影所でスチル写真撮影時に、爆発事故により右手の親指と人差し指を失くし、それ以降は義指着用となった[6]。『要心無用(1923年)』の有名なビルディング・アクションも、義指をつけての演技である。
その後、傑作『豪勇ロイド(1922年)』や、『猛進ロイド(1924年)』を発表。1925年には『ロイドの人気者』が興行成績において同年のチャップリンの『黄金狂時代』を上回った[7]。
相手役も『ロイドの巨人征服(1923年)』より名花ジョビナ・ラルストン(英語版)に代わり、1年に1本の割合で長編作品を作り続けた。
尚、日本でも、明朗快活でモダンなロイド喜劇は一世を風靡し、巨匠・小津安二郎監督などにも影響を与えている。小津作品の『大学は出たけれど』や『和製喧嘩友達』のセットにロイド作品のポスターが使用されている。
トーキー時代妻ミルドレッドと(1925年)
サイレント時代のスターが、徐々にトーキーシステムに乗りきれず(声が悪かったり過剰演技)凋落していくそのなかで、アクションが売りだったロイドも、また苦境を迎えていた。
人気は以前のように持続できなかったが、主演する映画はそれなりにヒットしている。1938年の『ロイドのエヂプト博士』以降長らくのブランクの後1947年の『ハロルド・ディドルボックの罪』(『ロイドの人気者』の続編)に主演したのを最後に引退した(ただしこの作品はいくつかのシーンを撮り直し再編集して1950年にタイトルを『Mad Wednesday(奇妙な水曜日)』に変更して再公開された)。
また彼は商才に長けていたため、自分のフィルムを後々まで手許に残し、再び脚光を浴びる機会を窺っていた。彼の死後、アメリカのタイムライフ社がその権利の一部を買い取り、『ロイドの喜劇の世界(英語版)』と題しテレビ放映された。日本では1970年代の後半に、「ロイド小劇場」(NHK)としてフランキー堺のナレーション入りで放送している[注釈 3]。
晩年ハリウッドの栄誉標
1952年、ロイドはコメディアンの巨匠、およびよき市民としてアカデミー名誉賞を授与された。
晩年は、趣味でもある写真工学の研究に励み、3Dで撮ったストリッパーや、マリリン・モンローの写真が遺されている(孫娘スザンヌ・ロイドが10万点の中から厳選した写真集が2004年に出版された)。
1971年3月8日、前立腺癌により77歳で死去。
2008年、ロイド全盛期の傑作がDVD-BOXとしてリリースされ、リマスターされた良質な映像で観られるようになった。
主な作品『豪勇ロイド』のポスター広告 (1919年)
(英語版のHarold Lloyd filmographyも参照。)
1910年代
『海辺の恋人たち(英語版)』(1915年)[8][9]
『ロイドの野球(英語版)』(1917年)[10][11]
『ロイドのコック/ロイドの浮気者(英語版)』(1917年)[12][13]
『ロイドの二挺拳銃(英語版)』(1918年)[14][15]
『ロイドの猛獣結婚(英語版)』(1918年)[16][17]
『ロイドの父に聞いて(英語版)』 (1919年)[18][19]
『ハート張り(英語版)』 (1919年)[20][21]