ハロッズ
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彼は1831年まで洋服店、生地商としてこの企業を経営した[5][6][7]。1825年には'Harrod and Wicking, Linen Drapers, Retail'(リンネル商ハロッドとウィッキング)の企業名で記録が残っているが[8]、この協力関係は同年末には解消した[9]。食品雑貨店として初めて事業を立ち上げたのは1832年のことで、‘Harrod & Co.Grocers’(ハロッド日用品商会)の名でクラーケンウェルのアッパー・ホワイトクロス・ストリート163に店を構えた[10]

1834年、紅茶に特別な興味を示したハロッドは、ロンドンのイースト・エンドステップニーのケーブル・ストリート4で食品雑貨の小売店を立ち上げた。これが今日まで続くハロッズの原点である。1849年、不衛生なインナーシティを回避して、2年後の開催が予定されたロンドン万国博覧会で見込まれる需要を狙い、ハイド・パークの近くで、今日まで続く店舗の所在地であるブロンプトン地区の小さな店を買い取って、営業を開始した。初めは2人のアシスタントと1人のメッセンジャーボーイを雇って始まったハロッズだったが、後に経営が息子のチャールズ・ディグビー・ハロッドに引き継がれ、医薬品、香水、筆記具、青果の販売を取り扱うようになり、ますます繁盛した。その後、隣接する建物を取得し、拡大を続けたハロッズは1880年には従業員数が100人に達した。

だが、順調に成長してきた店の運命は1883年12月初めの火事によって苦難の時を迎える。この苦難に際して、チャールズ・ハロッドは顧客にクリスマスの配達を実施して、同年は記録的な利益を上げた。即座に同じ場所に新しい店舗が建てられ、オスカー・ワイルド、リリー・ラントリー、エレン・テリーチャールズ・チャップリンノエル・カワードガートルード・ローレンスローレンス・オリヴィエヴィヴィアン・リージークムント・フロイトA・A・ミルン等の著名人、さらには英国王室の人々を得意客とするまでに発展し、より名声を高めた。ハロッズの店舗

1898年11月16日の水曜日、ハロッズのブロンプトン・ストリート・ストアでイングランド初の"動く階段"(エスカレーター)が実用化された。この"動く階段"は現在の一般的なエスカレーターとは異なり、マホガニー材と皮革製の連続したベルトのユニットから成るベルトコンベア風の段のない階段部分と銀色の板ガラス製の手すり部分で稼働していた[11]。(初めてエスカレーターを体験するという)"試練"を受けて弱った客は、(エスカレーターを)上った先で店員に気付け代わりのブランデーを提供してもらって元気を取り戻していた。1985年、百貨店はファイド兄弟によって買収された[12]
2010年の売却

2010年5月、ハロッズは売却に対して拒否する姿勢を示したが、カタール政府系投資ファンドであるカタール・ホールディングスに売却された。その2週間前、アルファイドは「クウェート、サウジアラビア、カタールから(ハロッズを買収しようと)人々が働きかけてきている。十分、理に適ったことだ。だが、私は彼らに2本の指を突き立ててみせる(日本でいう「裏ピース」。ファックサインに相当)[13]。それ(=ハロッズのこと。以下同じ)は売り物ではない。これはマークス&スペンサーやセインズベリーズなんて(ハロッズに比して低価値の)モノではない。それは人々を満足させる特別な場所だ。唯一のメッカなのだ。」と述べた[14]夜のハロッズ

同年5月8日未明にカタール首相のハマド・ビン・ジャーシムがロンドンを訪問し、ハロッズの獲得はカタール・ホールディングスの投資ポートフォリオに大きな価値を加えることになるであろう旨を述べ、売却契約を成立させて決着がついた。首相の補佐官はこの契約について、画期的な取引 (landmark transaction) だと言及した[12]。ファイド家のスポークスマンは「身を退く決断に至った中、ファイド家はハロッズが存続するように自らが強化してきた過去の遺産と伝統が確かであることを望む。」と語った[12]ハロッズは15億UKポンドで売却され、売却金の半分は6億2500万UKポンドの銀行債務の返済に充てられる[15]


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