1980年はボブ・バックランドのWWFヘビー級王座にもフィラデルフィアやアレンタウンなどで再三挑戦[17][18]、8月9日にシェイ・スタジアムで開催されたビッグイベント『ショーダウン・アット・シェイ』ではアンドレとのシングルマッチが組まれた[17]。 1980年から1983年にかけて、日本では当時WWFと提携していた新日本プロレスを主戦場とする。初来日は1980年5月の『第3回MSGシリーズ』。アメリカでのスケジュールの都合のためリーグ戦には参加せず、初来日ながらシリーズ後半戦への特別参加という扱いで、ストロング小林から勝利を収め、アントニオ猪木とのシングルマッチもテレビ中継で組まれた[19]。当時は1955年生まれと称しており、金色のマントをまとい背中には黒い剛毛を生やしていた。 2度目の来日となる1980年10月には、タイガー・ジェット・シンに次ぐ外国人陣営の準エース格として、猪木が保持していたNWFヘビー級王座に挑戦[20]。スタン・ハンセンのタッグパートナーとしても活躍し、同年11月開幕の『第1回MSGタッグ・リーグ戦』では猪木&ボブ・バックランドのチームと決勝を争った[21]。 1981年には、アブドーラ・ザ・ブッチャーを新日本プロレスに引き抜かれた全日本プロレスと『全日本プロレス中継』の放映局であった日本テレビによる外国人引き抜き工作のターゲットにされたことがあり、同年9月には全日本プロレスへの移籍が一旦発表された。実際に同年5月にボビー・ダンカン経由テリー・ファンクの仲介で契約書を交わす段階にまで至った。しかしホーガンはそれを新日本に見せ、ギャラ吊り上げの交渉に使ったためご破算となったといわれている。和田京平によれば、その後テリーは引き抜きのターゲットをホーガンからハンセンに変更したという[22]。その行動に怒ったテリーは京王プラザホテルでホーガンを殴り倒したとされているが、テリーは自著で否定している。 ハンセンが全日本プロレスに移籍した後の1982年には、ウエスタン・ラリアットを模したアックスボンバー(右腕をL字型に曲げ、ラリアットのように肘を相手に叩きつける技)をフィニッシャーに使用。出演映画『ロッキー3』の公開もあって本国同様に日本でも大ブレイクし、ハンセンに代わる新日本の看板外国人選手となる。外国人ベビーフェイスとして日本人陣営にも加わり、猪木とのタッグやブッチャーとの対戦も実現した[23]。坂口征二とのタッグチームでは、キラー・カーン&ブラックジャック・マリガンとの日米混合のスーパーヘビー級タッグマッチも行われた[24]。 1983年に開催された『IWGP決勝リーグ戦』にはアメリカ代表として参加し、6月2日に蔵前国技館で行われた決勝戦では猪木をアックスボンバーでKOして優勝を果たした[25]。 1981年から始めた右手人差し指を高々と上げ「イチバァーン!」と叫ぶ決めポーズも話題になり、リングコスチュームも黒のショートパンツに白字で「一番」と書いたものにする。「一番」と書かれたタンクトップやTシャツ、ハッピも発売された。以降 "ICHIBAN はNo.1を意味する語としてアメリカでも有名な日本語の1つとなった[26]。 1981年からはアメリカでの主戦場をAWAに移し、本国アメリカでもベビーフェイスとして大ブレイクを果たす。しかし、AWA世界王者ニック・ボックウィンクルを相手に何度となく「幻の勝利」を挙げたにもかかわらず、AWAの主宰者だったバーン・ガニアは他のスポーツの実績もなく、単純なパワーファイターのホーガンの商品価値を過小評価しAWA世界ヘビー級王座を与えなかった。 世界王座戴冠は果たせなかったものの、同じくスーパースター・ビリー・グラハムに憧れたジェシー・ベンチュラとの抗争や、超巨漢選手ジェリー・ブラックウェルとのボディスラム・マッチなどでも人気を博す[27]。また、WWFや新日本プロレスでの旧敵であるアンドレ・ザ・ジャイアントともタッグを組み、悪党マネージャーのボビー・ヒーナン率いるファミリー(ボックウィンクル、ケン・パテラ、ボビー・ダンカン、アドリアン・アドニス、ミスター・サイトーなど)と軍団抗争を展開した[28][29]。 同時期、ホーガンの知名度を更に向上させたのが、1982年公開のアメリカ映画『ロッキー3』への出演である[30]。ホーガンはプロボクサーのロッキー(シルヴェスター・スタローン)と戦う敵役のプロレスラー「サンダーリップス(Thunderlips)」としてプロレス界以外でもネームバリューを高めた[注 2]。 1983年12月、シニアの後継者となるビンス・マクマホン・ジュニアにWWF全米進出計画のエースとして白羽の矢を立てられ、日本滞在中にWWFと専属契約を交わす(AWAのバーン・ガニアは、この突然の引き抜き事件に激怒したという)。1984年1月23日、MSGにおいて当時の王者であったアイアン・シークを下しWWF世界ヘビー級王座初戴冠[32][33]。2月10日にはNWAの総本山だったセントルイスのキール・オーディトリアムにて、マスクド・スーパースターを相手に初防衛に成功[34]。
新日本プロレス時代
AWA時代右はジム・ブランゼル(1983年)
WWF時代