ハリー・S・トルーマン
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第二次世界大戦の終了から冷戦の始まりに関与し、NATOCIANSA国防総省を創設した[8][9]日本への原子爆弾投下について、投下書類(投下命令書)を承認したとされているが[10]、トルーマンによる正式な承認は記録されていない[注釈 1]。英語での発音は「トゥルーマン」に近い。
生涯
生い立ち

1884年5月8日、ミズーリ州ラマーにてジョン・アンダーソン・トルーマンとマーサ・エレン・ヤングの息子として誕生した。トルーマンが6歳の時に彼の親はミズーリ州インディペンデンスに引っ越し、そこで人格形成の時期の大部分を費やした。1901年に高校を卒業し、その後銀行の事務職に就いたが、1906年に父親を手伝うために就農した。トルーマンは大学卒業以上の学歴を持たない最後の大統領だった。1918年

第一次世界大戦へのアメリカの参戦に際して、トルーマンは州兵に参加して士官となり、フランスで大戦の休戦時まで、大尉として砲兵部隊を指揮した。戦争終結後はインデペンデンスに戻り、長年の恋人であるベス・ウォーレスと1919年に結婚した。その後、1人娘のマーガレットをもうけた。

トルーマンは最初の選挙戦に於いて、当時勢いを増していたクー・クラックス・クラン白人至上主義団体、KKK)の支援を得るため同団体に加入した。しかしKKKが提示したカトリック教徒ユダヤ人の雇用の禁止に反対し、すぐに脱退した。衣類販売業を共同で行った戦友であり、クラーク・クリフォードと共に後のトルーマンのイスラエル建国の承認に大きく役割を果たすユダヤ人のエドワード・ジェイコブソンとの友情を保つことは、トルーマンとユダヤ人との複雑な関係のスタートだった。
カウンティ・ジャッジ

1922年、カンザスシティの民主党員トム・ペンダーガストの支援を受け、ジャクソン郡のカウンティ・ジャッジ(司法官ではなく、他の2人のカウンティ・ジャッジと共に郡政府の責任者となる行政官)に選任され、1923年1月から同職を務めた。1924年の再選には失敗したが、1926年には再び選任された。

カウンティ・ジャッジとしての主な業績の1つは道路の改良であった。トルーマンは計画案を作成し、資金提供のための債券発行を承認した。彼が離任するまでにジャクソン郡には200マイル以上の新しいコンクリートの道路が完成していた。
政治経歴

1934年、トム・ペンダーガストはトルーマンをミズーリの上院議員として選出するために支援した。選挙戦は激烈で、トルーマンは4万票を得て予備選挙を勝ち抜いた。ミズーリで民主党の予備選挙を勝ち抜くことは本選挙で勝つことよりも困難なことであった。

上院議員に当選したトルーマンはルーズベルト大統領のニューディール政策を支持して活動した。その後1940年には再選に挑んだが、既にペンダーガスト機械は倒産し、その支援無しで選挙を戦わなければならなかった。

再選後の1941年には軍事費の不正使用に関して調査報告を行い、「トルーマン委員会」が設立された。その後の委員会の調査報告で150億ドル近い浪費が押さえられ、第二次世界大戦に突入したアメリカにおいて、トルーマンの知名度は全国的に上昇した。

1944年アメリカ合衆国大統領選挙が近づくと共にトルーマンは副大統領候補としてその名が浮上し、党大会によって指名された。ルーズベルトは戦時指導者として高い評価を受けて先例の無い4選を果たし、それに伴いトルーマンは副大統領に就任した。

しかし重い障害を持ちながら戦争中を通じて世界中を飛び回り、体調が悪い中で戦争終結に向けてヤルタ会談に参加するなど、心身に負担をかけ続けたルーズベルト大統領が1945年4月12日に急死し、トルーマンは大統領に昇格した。副大統領としての任期は僅か82日間であった。トルーマンは就任初日の気持ちを自身の日記に「私の肩にアメリカのトップとしての重荷がのしかかってきた。第一私は戦争の詳細について聞かされていないし、外交にもまだ自信が無い。軍が私をどう見ているのか心配だ。」と記していた。
大統領職
第二次世界大戦副大統領時代のトルーマン。ピアノの上にいる女性は女優のローレン・バコールである。なおトルーマンはピアニストになるのが夢であった(1945年2月10日・ワシントンD.C.のナショナル・プレス・クラブにて)。

大統領に就任してから終戦にかけてのトルーマンは外交政策に没頭した。前述の通りトルーマンは外交経験が全く無い上に、ルーズベルト大統領とは僅か1度しか会っておらず、戦争の進捗・内部の情報は全く聞かされていなかった。この当時ヨーロッパ戦線ではナチス率いるドイツが降伏間近で、アジア・太平洋戦線でも連合国軍が日本を追い詰め、戦争をどう終わらせるか舵取りが求められていた。

トルーマンが大統領に就任した時に知らされたのが、ヤルタ会談での秘密協定と新型爆弾(原子爆弾)の開発状況であった。しかし当時のトルーマンは前述した戦争の進捗整理・外交関係で手一杯であった為、トルーマンは「報告書を見るのは嫌いだ。」と言って新型爆弾の開発には興味を示さなかった。

また、戦後の国際秩序を決めるソビエト連邦など連合国との駆け引きがトルーマンの肩に乗し掛かっていた。1945年7月にはポツダム会談に参加した。7月26日にはアメリカ合衆国・イギリス・中華民国の3カ国による「ポツダム宣言」が発表されたが、3カ国代表のサインはトルーマンによって書き上げられた物であった。


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