ハリー・S・トルーマン
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長崎市の俘虜収容所第14分所に収容された捕虜たちは、三菱重工長崎造船所で働かされ、第14分所は敗戦時、オランダ人152人、オーストラリア人24人、イギリス人19人の195人を収容し、原爆で8人が死亡した[38]アメリカ合衆国連邦政府が被爆死したアメリカ軍兵士の捕虜の事を秘密にしていた理由について、同教授は「アメリカ国民の大半が支持した原爆投下でアメリカ兵が殺されていたとなれば、世論は批判に変わり、第二次大戦直後の冷戦激化の中での核戦略に重要な影響をもたらす、と懸念したからではないか」と語り、「一般市民はもちろん、味方の軍人まで犠牲にしても平気な“戦争の狂気”を告発したい」と述べている[39]。同教授は「政府はある時点から認めるようになりましたが名前は公表していません、政府は自分にとって不都合なことは公表しないものです」と取材に電話で応じている[40]。実は捕虜以外にもアメリカ国籍の被爆者はいる。戦前期の広島県が「移民県」であったことを背景に、被爆当時の広島市には開戦以前に親戚への訪問や日本国内への進学を理由として来広し、開戦によりそのまま帰米不能となった多数の日系アメリカ人が被爆した[41]


1997年、歴史家でアメリカ原子力制御委員会主席J・サミュエル・ウォーカー(英語版)は『原爆投下とトルーマン』を発表[42]、「この数年公開された外交文書と当時のアメリカ政府高官の日記の詳細な分析により、なぜアメリカが原爆を使用したかが増々明確になってきた。日本本土侵攻を避ける為にも早期終戦にも原爆は必要なかったこと、原爆以外の容易な外交的手段がありトルーマンはそれを知っていたこと、原爆はアメリカの若者50万人の命を救ったというこけの生えた主張に全く根拠がない、という点で我々研究者達の意見は一致した」とも発言している。


森林学者のフロイド・シュモー原爆投下のニュースを聴きナチス・ドイツユダヤ人虐殺にも匹敵する蛮行であると怒り悲しみ、トルーマンに抗議電報を打った。被災者のための家屋建設支援についてはその日の内に決断し、1口1ドルの寄付を募り米国各地を回り始めた[43]


1945年8月9日にアメリカ・キリスト教会連盟の抗議があり、「多くのキリスト教徒は、日本の都市に対する原子爆弾の使用に深く心を痛めております。なぜなら、原爆の使用は必然的に無差別破壊をもたらし、人類の未来にとって極めて危険な前例となるからです。連盟会長オクスナム主教と同連盟の恒久的平和委員委員長ジョン・F・ダレスは、報道向けの声明を準備しており、明日、次のことを強く主張するつもりです。原爆は人類に託されたものと見なすべきであり、日本国民に対して新型爆弾に関する事実を確認させ、降伏条件の受諾に十分な機会と時間が与えられるべきであること[注釈 7]。そして、日本国民にこれ以上の原爆による破壊がもたされる前に、日本が最後通牒について考え直す十分な機会が与えられることを謹んで要請致します。」とトルーマンに抗議の電報を打った[注釈 8]。アメリカ・キリスト教会連盟の原爆投下抗議の電報に対し、8月11日にトルーマンは「8月9日付の電報を頂き感謝いたします。私ほど原爆の使用に心を痛めている人間はいません。しかし、私は日本の宣戦布告なき真珠湾攻撃と戦争捕虜の虐殺にも非常に心を痛めました。日本人が理解する唯一の言葉というのは、私たちが日本人に対して原爆投下をすることのように思えます。獣(Beast)と接するときは、それを獣として扱わなければなりません。非常に残念なことでありますが、それが真実です。」と返答した[44]




渡邉恒雄は中央公論 2006年10月号に掲載された『なぜ、今、戦争責任の検証か』において、トルーマンは原爆投下がもたらす非戦闘員に対する非人間的な残酷さへの想像力が欠如していたのではないかと述べている。しかし、ポツダム会談の時期にトルーマンが書き残していた日記には、たとえ日本人がどんなに暴虐でも原爆で攻撃するのは残酷であるから、婦女子の被害を避けるため原爆攻撃目標は軍事拠点に限定し、東京と京都は目標から除くようスティムソン陸軍長官に指示したことが述べられていた。


1945年10月、ホワイトハウスに呼ばれたロバート・オッペンハイマーが「大統領、私は自分の手が血塗られているように感じます」と語り、トルーマンは「私は彼に、血塗られているのは私の手なのだから、私に任せるように言った」だが、トルーマンはオッペンハイマーの対応に激怒しており、「二度とあいつを呼ぶな」と命令した。[45]

トルーマン政権と軍との攻防

トルーマンは広島への原爆投下について1958年のCBSインタビューで「まったく心が痛まなかった」と語り、公式的な場でも原爆投下を正当化し続けていた。だが、トルーマンは原爆投下直後に深い後悔の念を抱いていたこと、トルーマン自身が一般市民を犠牲にする行為に反対していたこと、トルーマン政権と軍の間に知られざる攻防があったことが近年明らかになった[46]

原爆による最大の破壊効果を得るために選ばれたのは東京湾から佐世保までの17か所であったが、その中でも広島と京都が有力候補に上がっており、「マンハッタン計画」で原爆計画の責任者を務めていたレスリー・グローブス准将は京都を推した。グローブスは「京都は外せなかった。最初の原爆は破壊効果が隅々まで行き渡る都市に落としたかった」と述べていた。しかし、陸軍長官のヘンリー・スティムソンはかつて京都を2度訪問し、文化的・宗教的重要性から日本人の対米感を決定的に悪化させ、戦後政策に重大な影響を及ぼすことを認識していたためこの案を却下した。一方、グローブスの同意する目標選定委員会の報告書では、京都が百万の人口を持つ工業都市であること、付近の諸都市が破壊されるにつれて多数の避難民と罹災工業が流れ込みつつあること、サイズ的にも原爆の威力を知るに格好であることを指摘していた[47]。グローブスは、反対するスティムソンにはまず京都が人口百万人の大都市であること、それほどの都市であれば大工場はなくとも巨大な戦時作業に従事していると考えるべきだと主張したとする[47]。しかし、京都への投下は国益を損なうと考えていたスティムソンはグローブスの提案を認めようとはしなかった。グローブスは、スティムソンが訪問したことのある京都の古代文化に心を打たれたためと考えている[47]

1945年7月16日、ニューメキシコ州で世界初の原爆実験が成功した。一方で日本では既に多くの都市が空襲で焼け野原となり降伏は間近と見られ、グローブスは戦争が終わる前に原爆を使わなければならないと考えた。


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