トルーマンは広島への原爆投下について1958年のCBSのインタビューで「まったく心が痛まなかった」と語り、公式的な場でも原爆投下を正当化し続けていた。だが、トルーマンは原爆投下直後に深い後悔の念を抱いていたこと、トルーマン自身が一般市民を犠牲にする行為に反対していたこと、トルーマン政権と軍の間に知られざる攻防があったことが近年明らかになった[46]。 原爆による最大の破壊効果を得るために選ばれたのは東京湾から佐世保までの17か所であったが、その中でも広島と京都が有力候補に上がっており、「マンハッタン計画」で原爆計画の責任者を務めていたレスリー・グローブス准将は京都を推した。グローブスは「京都は外せなかった。最初の原爆は破壊効果が隅々まで行き渡る都市に落としたかった」と述べていた。しかし、陸軍長官のヘンリー・スティムソンはかつて京都を2度訪問し、文化的・宗教的重要性から日本人の対米感を決定的に悪化させ、戦後政策に重大な影響を及ぼすことを認識していたためこの案を却下した。一方、グローブスの同意する目標選定委員会の報告書では、京都が百万の人口を持つ工業都市であること、付近の諸都市が破壊されるにつれて多数の避難民と罹災工業が流れ込みつつあること、サイズ的にも原爆の威力を知るに格好であることを指摘していた[47]。グローブスは、反対するスティムソンにはまず京都が人口百万人の大都市であること、それほどの都市であれば大工場はなくとも巨大な戦時作業に従事していると考えるべきだと主張したとする[47]。しかし、京都への投下は国益を損なうと考えていたスティムソンはグローブスの提案を認めようとはしなかった。グローブスは、スティムソンが訪問したことのある京都の古代文化に心を打たれたためと考えている[47]。 1945年7月16日、ニューメキシコ州で世界初の原爆実験が成功した。一方で日本では既に多くの都市が空襲で焼け野原となり降伏は間近と見られ、グローブスは戦争が終わる前に原爆を使わなければならないと考えた。
渡邉恒雄は中央公論 2006年10月号に掲載された『なぜ、今、戦争責任の検証か』において、トルーマンは原爆投下がもたらす非戦闘員に対する非人間的な残酷さへの想像力が欠如していたのではないかと述べている。しかし、ポツダム会談の時期にトルーマンが書き残していた日記には、たとえ日本人がどんなに暴虐でも原爆で攻撃するのは残酷であるから、婦女子の被害を避けるため原爆攻撃目標は軍事拠点に限定し、東京と京都は目標から除くようスティムソン陸軍長官に指示したことが述べられていた。
1945年10月、ホワイトハウスに呼ばれたロバート・オッペンハイマーが「大統領、私は自分の手が血塗られているように感じます」と語り、トルーマンは「私は彼に、血塗られているのは私の手なのだから、私に任せるように言った」だが、トルーマンはオッペンハイマーの対応に激怒しており、「二度とあいつを呼ぶな」と命令した。[45]
トルーマン政権と軍との攻防