ハリー・S・トルーマン
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またカズニックは前述のウィリアム・リーヒ同様に、トルーマンが日本がソ連に和平仲介したことを意図的に無視したことを批判している[36]。広島・長崎に原爆を投下した真の狙いはソ連が参戦する前に日本の降伏を促すため、またソ連に対して「第二次世界大戦後のアメリカの勢力圏を守るという時にはアメリカは歴史上最も残虐な行為も厭わないということ」[37]を警告するためであり、原爆が勝利をもたらしたというのは「神話」であり実際にはソ連対日参戦が日本が降伏する決定打だったと主張している。2016年に、カズニックはストーンとともにロサンゼルス・タイムズに「広島への原爆投下は世界を変えたが、戦争を終結させてはいない」という記事を寄稿した。その内容は「トルーマンはソ連の侵攻により日本の敗戦が決定的になることを理解していたが原爆の投下を決断した」という内容である。

トルーマン政権時代の外交政策・核政策を専門とするスタンフォード大学の歴史学部のバートン・バーンスタイン教授は「太平洋戦争末期の広島・長崎への原爆投下は日本の降伏を早めたり、アメリカ軍兵士の犠牲を回避するのが目的で決断された訳では無い」という内容の論文を1995年に掲載しており、日本に懲罰を加えることが原爆投下の本来の目的の1つだったと説明している。また同教授は被爆したアメリカ兵捕虜について扱っている。原爆投下の直前、アメリカはイギリス情報部から「広島にアメリカ人捕虜がいる」と通告を受けていたがこれを無視され、アメリカ戦略空軍司令部の極秘電報(45年7月30日付)によると同司令部は長崎にはアメリカ人捕虜収容所があることを確認、ワシントンに打電されたが、投下は強行された。結局、長崎の原爆は目標を少しずれたため、約1400人のアメリカ人捕虜は助かった。長崎市の俘虜収容所第14分所に収容された捕虜たちは、三菱重工長崎造船所で働かされ、第14分所は敗戦時、オランダ人152人、オーストラリア人24人、イギリス人19人の195人を収容し、原爆で8人が死亡した[38]アメリカ合衆国連邦政府が被爆死したアメリカ軍兵士の捕虜の事を秘密にしていた理由について、同教授は「アメリカ国民の大半が支持した原爆投下でアメリカ兵が殺されていたとなれば、世論は批判に変わり、第二次大戦直後の冷戦激化の中での核戦略に重要な影響をもたらす、と懸念したからではないか」と語り、「一般市民はもちろん、味方の軍人まで犠牲にしても平気な“戦争の狂気”を告発したい」と述べている[39]。同教授は「政府はある時点から認めるようになりましたが名前は公表していません、政府は自分にとって不都合なことは公表しないものです」と取材に電話で応じている[40]。実は捕虜以外にもアメリカ国籍の被爆者はいる。戦前期の広島県が「移民県」であったことを背景に、被爆当時の広島市には開戦以前に親戚への訪問や日本国内への進学を理由として来広し、開戦によりそのまま帰米不能となった多数の日系アメリカ人が被爆した[41]


1997年、歴史家でアメリカ原子力制御委員会主席J・サミュエル・ウォーカー(英語版)は『原爆投下とトルーマン』を発表[42]、「この数年公開された外交文書と当時のアメリカ政府高官の日記の詳細な分析により、なぜアメリカが原爆を使用したかが増々明確になってきた。日本本土侵攻を避ける為にも早期終戦にも原爆は必要なかったこと、原爆以外の容易な外交的手段がありトルーマンはそれを知っていたこと、原爆はアメリカの若者50万人の命を救ったというこけの生えた主張に全く根拠がない、という点で我々研究者達の意見は一致した」とも発言している。


森林学者のフロイド・シュモー原爆投下のニュースを聴きナチス・ドイツユダヤ人虐殺にも匹敵する蛮行であると怒り悲しみ、トルーマンに抗議電報を打った。被災者のための家屋建設支援についてはその日の内に決断し、1口1ドルの寄付を募り米国各地を回り始めた[43]


1945年8月9日にアメリカ・キリスト教会連盟の抗議があり、「多くのキリスト教徒は、日本の都市に対する原子爆弾の使用に深く心を痛めております。なぜなら、原爆の使用は必然的に無差別破壊をもたらし、人類の未来にとって極めて危険な前例となるからです。連盟会長オクスナム主教と同連盟の恒久的平和委員委員長ジョン・F・ダレスは、報道向けの声明を準備しており、明日、次のことを強く主張するつもりです。原爆は人類に託されたものと見なすべきであり、日本国民に対して新型爆弾に関する事実を確認させ、降伏条件の受諾に十分な機会と時間が与えられるべきであること[注釈 7]。そして、日本国民にこれ以上の原爆による破壊がもたされる前に、日本が最後通牒について考え直す十分な機会が与えられることを謹んで要請致します。」とトルーマンに抗議の電報を打った[注釈 8]。アメリカ・キリスト教会連盟の原爆投下抗議の電報に対し、8月11日にトルーマンは「8月9日付の電報を頂き感謝いたします。私ほど原爆の使用に心を痛めている人間はいません。しかし、私は日本の宣戦布告なき真珠湾攻撃と戦争捕虜の虐殺にも非常に心を痛めました。日本人が理解する唯一の言葉というのは、私たちが日本人に対して原爆投下をすることのように思えます。獣(Beast)と接するときは、それを獣として扱わなければなりません。非常に残念なことでありますが、それが真実です。」と返答した[44]




渡邉恒雄は中央公論 2006年10月号に掲載された『なぜ、今、戦争責任の検証か』において、トルーマンは原爆投下がもたらす非戦闘員に対する非人間的な残酷さへの想像力が欠如していたのではないかと述べている。しかし、ポツダム会談の時期にトルーマンが書き残していた日記には、たとえ日本人がどんなに暴虐でも原爆で攻撃するのは残酷であるから、婦女子の被害を避けるため原爆攻撃目標は軍事拠点に限定し、東京と京都は目標から除くようスティムソン陸軍長官に指示したことが述べられていた。


1945年10月、ホワイトハウスに呼ばれたロバート・オッペンハイマーが「大統領、私は自分の手が血塗られているように感じます」と語り、トルーマンは「私は彼に、血塗られているのは私の手なのだから、私に任せるように言った」だが、トルーマンはオッペンハイマーの対応に激怒しており、「二度とあいつを呼ぶな」と命令した。[45]

トルーマン政権と軍との攻防

トルーマンは広島への原爆投下について1958年のCBSインタビューで「まったく心が痛まなかった」と語り、公式的な場でも原爆投下を正当化し続けていた。だが、トルーマンは原爆投下直後に深い後悔の念を抱いていたこと、トルーマン自身が一般市民を犠牲にする行為に反対していたこと、トルーマン政権と軍の間に知られざる攻防があったことが近年明らかになった[46]


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