ハリー・S・トルーマン
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

トルーマンの基本方針は東西冷戦の開始に伴う共産主義封じ込め政策だったが、ソ連と同じ共産圏ながらスターリンと対立していたユーゴスラビアヨシップ・ブロズ・チトー政権には軍事援助と経済支援を行った[19][20]。また、国家安全保障法の制定によって国家安全保障会議(NSC)・中央情報局(CIA)・国防総省を創設して冷戦時代における対外政策の決定に必要な各省の情報収集活動を統合した[8]

アメリカは?介石政権崩壊・中国共産党拡大防止対策を行い、トルーマン政権のアジア政策も対中政策を最も重要視し、双十協定を仲介するなど国共内戦の調停を成立させることによって中国の「大国化」を達成しようとした。したがって、トルーマン政権の対中政策は、「ルーズベルトの戦後構想」を基調とするものとして始まったと言える。12月15日に対中戦後政策に関する包括的な公式声明を発した。その内容は以下の通りである。
中国共産党を含めた国民党主導下の統一政府樹立。

共産党軍の国民党軍への編入。

安定政権の基礎づくりのため、土地改革を初めとする社会改革への着手の諸点を要求する。

以上が実行されない場合、アメリカは対中援助の拒否権を使用すること。

同声明は以上の4つから成り立っていた。しかしルーズベルトが大きな支持を与え、自らの利権もあり親密な関係を保っていた中華民国?介石との折り合いが悪く、?介石は後に国共内戦を始めてしまう。トルーマンは8月10日に?介石にその行動を非難するメッセージを送り、国内問題の早急な平和的解決への努力を要請し再度、中国国民党と中国共産党の政治的和解こそが中国の再建という大事業を可能にさせるのであり、「中国全土に広がる内戦の危機の脅威を速やかに除去することができるならば、アメリカは中国の工業および農業改革の復興を援助する計画を実行に移すことになろう」と警告を発したが、それも何ら効力を発揮すること無く国民党の軍事攻勢は続けられた。

さらに12月18日に「対中政策」を発表し、アメリカは中国の内戦に巻き込まれることを避けつつ、中国国民が中国に平和と経済復興をもたらすのを援助するだけであるとして、国民党と共産党の和平を仲介させていたジョージ・マーシャル将軍の召喚と中国の内戦に関わる一切の行為からのアメリカの撤退を表明したのであり、アチソンによれば「中国で内戦が再開されたならば国民政府とは関係を維持しつつ、合衆国兵力を中国から撤収し、物質的援助を停止することを考慮する」とし、「もしソ連が中国共産党を支持することになった場合には合衆国は政策を大幅に再検討することが必要になろう」というものであった[21]。1947年に入るとマーシャル・ミッションの失敗によって、中国の「大国化」が事実上失敗したことが明らかになりつつあった。

アメリカは失敗の原因として?介石の率いる国民党政権の無能や腐敗を指摘し、中国問題に距離を置き、後に?介石率いる国民党への支援を事実上断ち切った。その代わりに国務省は中国の代わりとなる国を探し始め、アジアの経済発展における日本の重要性が強調されるようになる。その結果ソ連の支持を受けていた毛沢東率いる共産党が国共内戦に勝利し、1949年10月1日に中華人民共和国が設立され、?介石は台湾に遷都することとなった。

トルーマン政権は?介石率いる国民党政権の無能ぶりを厳しく批判しており、CIAの見通しではアメリカの介入が無ければ、1950年中に台湾も共産党の手に落ちるであろうと予測していた。1950年1月5日には台湾不干渉声明を発表していたが(後にアチソン・ラインとして定義される)[22][23]、このころになると、トルーマン政権の無策が中国を共産圏に追いやったとの批判(中国の喪失論)が共和党を中心に各方面から噴出し、このままむざむざ台湾を共産党側に渡すことに反対する意見が高まってきており、?介石はアメリカの態度好転に期待を繋いでいた。朝鮮戦争開戦から2日後の同年6月27日に台湾海峡の中立化を名目に第7艦隊を派遣した。
再選朝鮮戦争時、極東情勢について演説・マッカーサー解任の必要を述べるトルーマン。(世界通信より)朝鮮戦争への介入を宣言する宣誓書へのサイン

1948年アメリカ合衆国大統領選挙でトルーマンは自身の政策を「フェアディール政策」と呼び、民主党員としてルーズベルトのニューディール政策を受け継ぐ立場であることを強調した。その政策は社会保障公民権、タフト・ハートレー法の撤廃などを内容とするものであった。

トルーマンの敗北が広く予想されたが、トルーマンは猛烈にキャンペーンを行い、共和党候補トマス・E・デューイを破り、真の大統領としての任期を得、大統領選挙史上で最も大きな混乱のうちの一つを切り抜けた。シカゴ・トリビューン紙は混乱した大統領選挙の結果を「デューイ、トルーマンを破る」との見出しで誤報した。その見出しをトルーマン本人が掲げて笑うスナップは有名である。
朝鮮戦争

2期目の就任直後にトルーマンはフェアディールの諸政策を議会に提示したが、議会多数を占める共和党や当時は人種差別に肯定的な立場だった民主党の保守派には受け入れられなかった。その後の朝鮮戦争の勃発で、再び外交政策へ注力せざるを得なかった。

国連軍総司令官のダグラス・マッカーサーによる仁川上陸作戦と、その後の国連軍の猛攻を受けて金日成は中華人民共和国に事実上亡命して韓国に侵攻していた北朝鮮朝鮮人民軍は壊滅的な状態であり、戦争は北朝鮮の消滅で終結するかと思われたが、中華人民共和国から義勇兵と称する中国人民志願軍の本格参戦を受けて国連軍は元の38度線近くまで押し返された。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:160 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef