ハリー・S・トルーマン
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戦後、原爆被害の重大さが知られるにつれ、当時の陸軍長官であったスチムソンは原爆投下理由の説明を迫られ、ようやく1947年になって、これを日本の抵抗が長引けばさらに百万人の米兵の生命が失われるとの報告を受けたためとした[16]。トルーマンもこの説明を踏襲した[17]。こうしてトルーマン自身は生涯原爆投下を正当化した。ウェラースタインのような実証主義的な歴史家の間ではもう単純な見方はされていない[18]とされるが、アメリカ一般ではこの説明が一般化し、未だに「戦争を早期終結に導きアメリカ将兵の命を救った大統領」という評価が根強い。

陸軍の完全な機密保持下に行われた原爆開発は戦後見直しを図られ、トルーマンは1945年10月に議会に対し、原子力に関する教書を送った。それは原子力開発に関する管理体制についての物であった。翌年の8月には原子力法案が成立し、原子力委員会(AEC, United States Atomic Energy Commission)が作られた。1953年1月7日にトルーマンは水素爆弾の開発を発表した。
対ソ・対中政策

日本の領土を少しでも多く略奪することを画策していたスターリンは南樺太や千島列島に加えて、北海道北部(留萌市から釧路市を結ぶ線から北東側全域。留萌市・釧路市については分割せずソ連が占領する。)をも併合しようとする案をトルーマンに申し入れていたものの、トルーマンはこの提案を拒否した。

第二次世界大戦後、スターリン率いるソ連が東ヨーロッパを中心に勢力を拡大しているということに気付いたトルーマンは、ソ連に対して強硬路線を取ることを明確にした。また、ウッドロウ・ウィルソンとルーズベルト前大統領の意を継いで国際連合の設立を強く支援し、前ファーストレディのエレノア・ルーズベルトを含む代表団を最初の国際連合総会に派遣した。彼の外交知識を疑う者もいたが、マーシャル・プランに対する広い支援の獲得と、トルーマン・ドクトリンによってNATOを設立してヨーロッパにおけるソ連の軍事力を牽制し、外交面での成果を上げた[9]。トルーマンの基本方針は東西冷戦の開始に伴う共産主義封じ込め政策だったが、ソ連と同じ共産圏ながらスターリンと対立していたユーゴスラビアヨシップ・ブロズ・チトー政権には軍事援助と経済支援を行った[19][20]。また、国家安全保障法の制定によって国家安全保障会議(NSC)・中央情報局(CIA)・国防総省を創設して冷戦時代における対外政策の決定に必要な各省の情報収集活動を統合した[8]

アメリカは?介石政権崩壊・中国共産党拡大防止対策を行い、トルーマン政権のアジア政策も対中政策を最も重要視し、双十協定を仲介するなど国共内戦の調停を成立させることによって中国の「大国化」を達成しようとした。したがって、トルーマン政権の対中政策は、「ルーズベルトの戦後構想」を基調とするものとして始まったと言える。12月15日に対中戦後政策に関する包括的な公式声明を発した。その内容は以下の通りである。
中国共産党を含めた国民党主導下の統一政府樹立。

共産党軍の国民党軍への編入。

安定政権の基礎づくりのため、土地改革を初めとする社会改革への着手の諸点を要求する。

以上が実行されない場合、アメリカは対中援助の拒否権を使用すること。

同声明は以上の4つから成り立っていた。しかしルーズベルトが大きな支持を与え、自らの利権もあり親密な関係を保っていた中華民国?介石との折り合いが悪く、?介石は後に国共内戦を始めてしまう。トルーマンは8月10日に?介石にその行動を非難するメッセージを送り、国内問題の早急な平和的解決への努力を要請し再度、中国国民党と中国共産党の政治的和解こそが中国の再建という大事業を可能にさせるのであり、「中国全土に広がる内戦の危機の脅威を速やかに除去することができるならば、アメリカは中国の工業および農業改革の復興を援助する計画を実行に移すことになろう」と警告を発したが、それも何ら効力を発揮すること無く国民党の軍事攻勢は続けられた。

さらに12月18日に「対中政策」を発表し、アメリカは中国の内戦に巻き込まれることを避けつつ、中国国民が中国に平和と経済復興をもたらすのを援助するだけであるとして、国民党と共産党の和平を仲介させていたジョージ・マーシャル将軍の召喚と中国の内戦に関わる一切の行為からのアメリカの撤退を表明したのであり、アチソンによれば「中国で内戦が再開されたならば国民政府とは関係を維持しつつ、合衆国兵力を中国から撤収し、物質的援助を停止することを考慮する」とし、「もしソ連が中国共産党を支持することになった場合には合衆国は政策を大幅に再検討することが必要になろう」というものであった[21]。1947年に入るとマーシャル・ミッションの失敗によって、中国の「大国化」が事実上失敗したことが明らかになりつつあった。

アメリカは失敗の原因として?介石の率いる国民党政権の無能や腐敗を指摘し、中国問題に距離を置き、後に?介石率いる国民党への支援を事実上断ち切った。その代わりに国務省は中国の代わりとなる国を探し始め、アジアの経済発展における日本の重要性が強調されるようになる。その結果ソ連の支持を受けていた毛沢東率いる共産党が国共内戦に勝利し、1949年10月1日に中華人民共和国が設立され、?介石は台湾に遷都することとなった。

トルーマン政権は?介石率いる国民党政権の無能ぶりを厳しく批判しており、CIAの見通しではアメリカの介入が無ければ、1950年中に台湾も共産党の手に落ちるであろうと予測していた。1950年1月5日には台湾不干渉声明を発表していたが(後にアチソン・ラインとして定義される)[22][23]、このころになると、トルーマン政権の無策が中国を共産圏に追いやったとの批判(中国の喪失論)が共和党を中心に各方面から噴出し、このままむざむざ台湾を共産党側に渡すことに反対する意見が高まってきており、?介石はアメリカの態度好転に期待を繋いでいた。


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