ハリー・S・トルーマン
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ミズーリ州選出連邦上院議員副大統領を歴任し、大統領に昇格した。第二次世界大戦終結当時の大統領である。
概説

1945年4月12日のフランクリン・ルーズベルトの死去を受けて副大統領から大統領に昇格した。白人至上主義者団体クー・クラックス・クラン(KKK)への加入歴もあるが[5][要ページ番号]、全米有色人種地位向上協会で演説を行い[6][要ページ番号][7]公民権運動を支援した最初の大統領である。第二次世界大戦の終了から冷戦の始まりに関与し、NATOCIANSA国防総省を創設した[8][9]日本への原子爆弾投下について、投下書類(投下命令書)を承認したとされているが[10]、トルーマンによる正式な承認は記録されていない[注釈 1]。英語での発音は「トゥルーマン」に近い。
生涯
生い立ち

1884年5月8日、ミズーリ州ラマーにてジョン・アンダーソン・トルーマンとマーサ・エレン・ヤングの息子として誕生した。トルーマンが6歳の時に彼の親はミズーリ州インディペンデンスに引っ越し、そこで人格形成の時期の大部分を費やした。1901年に高校を卒業し、その後銀行の事務職に就いたが、1906年に父親を手伝うために就農した。トルーマンは大学卒業以上の学歴を持たない最後の大統領だった。1918年

第一次世界大戦へのアメリカの参戦に際して、トルーマンは州兵に参加して士官となり、フランスで大戦の休戦時まで、大尉として砲兵部隊を指揮した。戦争終結後はインデペンデンスに戻り、長年の恋人であるベス・ウォーレスと1919年に結婚した。その後、1人娘のマーガレットをもうけた。

トルーマンは最初の選挙戦に於いて、当時勢いを増していたクー・クラックス・クラン白人至上主義団体、KKK)の支援を得るため同団体に加入した。しかしKKKが提示したカトリック教徒ユダヤ人の雇用の禁止に反対し、すぐに脱退した。衣類販売業を共同で行った戦友であり、クラーク・クリフォードと共に後のトルーマンのイスラエル建国の承認に大きく役割を果たすユダヤ人のエドワード・ジェイコブソンとの友情を保つことは、トルーマンとユダヤ人との複雑な関係のスタートだった。
カウンティ・ジャッジ

1922年、カンザスシティの民主党員トム・ペンダーガストの支援を受け、ジャクソン郡のカウンティ・ジャッジ(司法官ではなく、他の2人のカウンティ・ジャッジと共に郡政府の責任者となる行政官)に選任され、1923年1月から同職を務めた。1924年の再選には失敗したが、1926年には再び選任された。

カウンティ・ジャッジとしての主な業績の1つは道路の改良であった。トルーマンは計画案を作成し、資金提供のための債券発行を承認した。彼が離任するまでにジャクソン郡には200マイル以上の新しいコンクリートの道路が完成していた。
政治経歴

1934年、トム・ペンダーガストはトルーマンをミズーリの上院議員として選出するために支援した。選挙戦は激烈で、トルーマンは4万票を得て予備選挙を勝ち抜いた。ミズーリで民主党の予備選挙を勝ち抜くことは本選挙で勝つことよりも困難なことであった。

上院議員に当選したトルーマンはルーズベルト大統領のニューディール政策を支持して活動した。


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