1866年(慶応2年)、米仏蘭とともに幕府と改税約書に調印。グラバーの仲介で鹿児島を訪問、薩摩藩主・島津茂久(島津忠義)、その父・島津久光のほかに西郷隆盛・寺島宗則と会見した[注釈 6]。第二次長州征伐勃発直後、フランス公使レオン・ロッシュと共に、下関で長州藩の桂小五郎・伊藤博文らと、小倉で幕府老中小笠原長行と会談し、両者の調停をはかるが失敗した。その後、宇和島藩を訪問し、前藩主・伊達宗城らに会った。年末、公使館を横浜から江戸の泉岳寺前に移転した。
1867年(慶応3年)江戸で米価高騰による米騒動を目撃し、幕府に勧めて外国米の輸入販売を許可する布告を発布させた。箱根に旅行。大坂で徳川慶喜に謁見する。この時、慶喜はまだ勅許を得ていなかったが、期限どおり兵庫を開港することを確約した。パークスは、このときの慶喜の印象を「今まで会った日本人の中で最もすぐれた人物」と語り絶賛した。敦賀視察[注釈 7]の後、大坂から海路で江戸に帰った。イギリス海軍教官受け入れ準備のため軍艦奉行・勝海舟と交渉した。軍艦スナップ号(後にバジリスク号)で箱館から日本海を南下し、新潟・佐渡・七尾を視察した後に、長崎を経由し大坂に行った。イカルス号水夫殺害事件、浦上信徒弾圧事件を知り、幕府に対してイカルス号水夫殺害事件の責任を厳しく追及、当初は土佐藩の関与が疑われたため、徳島経由で土佐に赴き、主に後藤象二郎と交渉した。その後、夫人を伴い富士山に登った[注釈 8]。兵庫開港・大坂開市に備え大坂に行った。王政復古の大号令が出されたために京都を離れ、大坂城に入った徳川慶喜に謁見した。明治天皇との謁見に向かう途中に襲撃されたパークス一行
1868年(慶応4年・明治元年)、鳥羽・伏見の戦いの勃発、幕府軍の敗北、慶喜の大坂城脱出を知った。幕府から各国外交団の保護不可能との通達があったため兵庫へ移動した。神戸事件が勃発、アメリカ海兵隊・フランス水兵とともにイギリス警備隊を率い備前藩兵と交戦した。兵庫に派遣されてきた新政府使節・東久世通禧と会談、新政府の開国和親・条約遵守の方針を確認し、神戸事件についてもほぼ解決に至った。公使団を説得し[注釈 9]、戊辰戦争への局外中立を宣言した[注釈 10]。新政府の正当性を宣言するため各国外交団に明治天皇への謁見が許された[注釈 11]矢先に堺事件がおきたが、同事件解決後に京都に行き、三条実美・岩倉具視などに会い、天皇にも謁見した。