ハリー・スタック・サリヴァン
[Wikipedia|▼Menu]
文化学派、「関与しながらの観察」

サリヴァンは精神障害の発症にかかわる社会文化的要因を重視した。1930年代に彼の主催した「ゾディアック・グループ」に合流した学者には、カレン・ホーナイエリク・エリクソンといった新フロイト派の精神分析家のほか、言語学者エドワード・サピア、政治学者ハロルド・ラズウェル、文化人類学者ルース・ベネディクトといった社会科学者が多い。彼は「精神医学は対人関係の学である」[5]とし、各発達ステージにおける対人イベントの偏向とその結果について多くの論文を残した。

彼は初期プラグマティズム文化人類学(特にシカゴ学派)と交流を持ち、その研究手法を精神医学に大きく取り入れている。サリヴァンの言葉として有名な「関与しながらの観察」は、これら社会科学者との交流より得られた、精神活動の客観的観察が可能であるという前提への懐疑を表明したものである。この言葉は行動主義心理学を批判すると同時に、暗にフロイト派精神分析に疑義を投げかけるものであった。

1943年にサリヴァンは ⇒William Alanson White Instituteを設立し、これが第二次大戦以降のアメリカにおける精神科医、精神分析家、ソーシャルワーカーの主要な訓練機関となった。初代理事長にクララ・トムソンを指名したが、教育方針をめぐる対立のために数年で辞職している。またこの時期よりチェストナット・ロッジ病院で臨床指導医となり、後に拒食症治療の第一人者となるヒルデ・ブルグを指導している。

1940年代以降、アメリカ精神医学界でサリヴァンの臨床理論は絶大な影響力をもったが、彼の著作は没後ながく出版が差し止められていた。第一にはサリヴァンの同性愛への親和的言説(サリヴァン自身も同性愛者であった[4])が忌避されたことがある。これに加えて、フロイト理論への批判に対してアメリカ精神医学会から圧力が加えられたことも指摘されている。共産主義陣営との接触を疑われていたことも、マッカシーズム前夜の米国においてサリヴァンへの言及を困難にした。
統合失調症治療における実践

サリヴァンは自らの設計した急性期病棟プログラムにおいて、70%近い統合失調症社会的寛解を実現していた。(この治療成績は、サリヴァンの去った後を継いだWilliam Silverbergによっても確認されている。)[6] 当時の秘書は、彼自身がかつて、統合失調症を発症していたと述べていたといい、サリヴァン自身のかつての経験もその治療論に色濃く反映しているとされる。

彼自身はフェレンツィ・シャーンドルによる精神分析を希望していたが、臨床上の制約から渡欧することができなかった。代わりに、共同研究者であったクララ・トムソンをフェレンツィのもとに送り、そこで学ばせた技法で自らに分析を行うよう指示している。(帰米後にトムソンが用いたのはウィルヘルム・ライヒの技法に近いもので、分析自体もサリヴァンによって中断された。トムソンはこれを「サリヴァンの性格武装のため」と振り返っている。)[7]

またサリヴァンは統合失調症の治療の中から、現代の自閉スペクトラム症を指して「精神病質の幼児psychopathic child」という用語を初めて提出している[8]
サリヴァンの理論(「発達論的アプローチ」)

サリヴァンは出生以降の他者との交わりの様式を5つに分けている。

第一がinfancy era(乳児期)であり、ここでは自らに快楽(母乳による空腹軽減)を与える絶対他者(神の前概念)との二値的な関係である。この時期の体験様式を「宇宙的融即cosmic participation」としている。

第二にchildhood era(幼児期)であり、ここでは第一次集団(同じ家に住む家族)との交流、特に支配/服従関係を中心にした交流が営まれる。この時期以降に観察されるの病理として、精神発達遅滞を伴わない対人関係の障害また、幼児期に養育者の生殖器に対する態度(乳児自慰に対する親の過剰反応など)が取り込まれ、「去勢不安」としてみられる情緒的反応を作ると考えた。(幼少期の具体的な対人的イベントによって人格形成が進むという発言は、当時のフロイト派から激烈な反発を受けた。この頃のフロイト派の理論は人格形成がリビドーなどの個人内の力動によって完結すると主張していたためである。)[9]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:45 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef