ハラージュ
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ザカートは一種の義務的な救貧税で、家畜農産物の現物徴収であった[1][3]。イスラーム政権が土地や作物などを税として徴収した嚆矢としては、627年ハンダクの戦い塹壕の戦い)ののちに条約違反を問責され討伐されたメディナ地方のユダヤ教徒部族、クライザ族の土地が接収された後、その土地と収穫物について税が課された例が最初である。しかし、この時期はまだ個別的な事例に対する課税にとどまり、「地租」という課税対象の分野が確立されるのは正統カリフ時代以降を待たねばならない。
正統カリフ時代

632年のムハンマドの死後、正統カリフ時代(632年-661年)と呼ばれる時代となるが、イスラーム世界は急速に拡大し、広大な領域を支配するようになった。正統カリフ、ウマル1世の柄付の剣

「稀代の英雄」との評価もある[4] 第2代正統カリフウマル・イブン・ハッターブ(ウマル1世、在位:634年-644年)は、前代カリフ(アブー・バクル)の時代に達成されたアラビア半島の統一を背景に、シリアメソポタミアイラク)、イランエジプトなど多方面に遠征軍を送り出して驚くべき速さで達成された「アラブの大征服」を指導した[4]パレスティナもまた、ムスリムの支配するところとなり、記録によれば、当時エルサレム総主教であったソフロニオスは、638年の説教でイスラーム教への敵意と侮蔑を交えながら、ベツレヘムがムスリムの手に落ちたことを警告している。

ウマル1世はまた、サーサーン朝のイランからはディーワーンつまり財政関係の諸制度、東ローマ帝国からは行政関係の諸制度を導入した[5]。イスラーム共同体の支配地域の拡大は、共同体の財政基盤の拡大、戦利品の集計と前線兵士たちへ分配する俸給(アターウ)と糧食(リズク)、国庫への納入額の算出を必要とし、正確な徴税記録と課税物件を記した帳簿、それらを管理する部局の必要性が生じることとなった。本来、「ディーワーン」とは帳簿のことを言うが、財政部門の整備と拡大にともない租税台帳の作成とその管理部門が設けられるようになり、やがてこれらを管理する財政関係の部局そのものを指す名称となった。

ハラージュは、このような大征服の時代にサワード地方(下イラク地方)でおこなわれた土地課税を嚆矢としていた[3]。征服地では、政治的・軍事的に優位な地位にあるアラブ人が、非アラブ人や非ムスリムを支配するために彼らから人頭税(ジズヤ)・土地税(ハラージュ)を徴収する制度が採用された。ウマル1世自身も、シリアやパレスティナ全土の住民に対しジズヤとハラージュの支払いを負う代わりに安全保障の権利(アマーン ???? am?n )を確約するという内容の和平条約(スルフ ??? ?ul? )を結んでいる。ここでは、イスラームの教えを強制することなく、被征服民の宗教や慣習、言語などは尊重された[1][4]

被征服民でイスラーム政権を認めた人びとは、イスラーム政権からの庇護(ズィンマ)を受けた。ズィンマを受けた非ムスリムの人々のことを「ズィンマの民」( ??? ?????? ahl al-dhimma)と呼び、同じ意味で単にズィンミーとも言う。これは預言者ムハンマドの時代に、アラビア半島内の非ムスリムの住人たちに対して与えたことを起源とするが、アラブ征服時代にイスラーム政権に下った各地の先住民たちは、全て「ズィンマの民」=ズィンミーとして扱われた。また、『聖書』を奉じ、神の啓示と一神教を信仰するユダヤ教徒やキリスト教徒は「啓典の民」( ??? ?????? ahl al-kit?b)として偶像崇拝をおこなう他の宗教の信者と区別して優遇された。のちにイラン高原や中央アジアのソグディアナ(いわゆるマー・ワラー・アンナフル)への征服が進むと、その地域にいたゾロアスター教徒の住民たちも、同じく「啓典の民」として扱った[1][4]タバリーやバラーズリーなどの歴史家が伝えるところでは、8、9世紀の北インド遠征でも、アラブ軍に降伏した仏教勢力の人々に対しても、モスクの建設やズィンミーとして租税を課す代わりにズィンミーとして従来の信仰や生活が保障された例が見られる。被征服国の公有地やイスラーム政権に抵抗した人びとの私有地は没収されたが、ズィンミーの土地の場合は現状のままとして、それに保護(ズィンマ)を加えた。没収地は政府で管理したが、アラビア以外ではムスリムに分け与える場合もあり、また、ムスリムが土地を購入することも認めた[4]。イスラーム教徒に分与された土地はカティーアとよばれた。人頭税や土地税を納める義務をもつのは本来的には異教徒のみで、イスラーム教徒の場合はザカートと、その人がカティーアを所有する場合は「ウシュル」とよばれる少額の地租(「十分の一税」とも訳される[6])とを納入すればよかった。イスラーム教徒には、他にも特権があったので、被征服民は続々とイスラームに改宗した。

アラブ征服時代、各地に進出したアラブ軍は多くが部族集団単位で行動する一方で、現地勢力とワラー関係、つまりパトロヌス・クリエンテス、保護・被保護の関係を結んだ。ワラー関係とは、イスラーム以前からあったアラブの社会慣習のひとつで、何らかの理由で当該の部族や家族、個人と保護・被保護の関係を結ぶことを言ったが、このパトロンクライアント関係の当事者のことをマウラー( ???? mawl?)と呼び、その複数形がマワーリーである。アラブ征服時代に、アラブ戦士(アラブ・ムカーティラ)が遠征先の現地勢力や個人とワラー関係を結び、マウラー、マワーリーとなった。元来、アラブでのワラー関係の当事者となる対象は自由身分や奴隷身分かは問われず、アラブ・ムカーティラもアラブの慣習を遠征先でも用いた。そのためマウラー、マワーリーとなった現地の人々も領主クラスの自由人から一般民衆、家人、奴隷など様々であり、マワーリーがすなわち奴隷身分になるということでは無かった。現地の人々は、多くの場合アラブ・ムカーティラとワラー関係を構築したうえでその庇護民となったが、現地の豪族たちはアラブ軍の指揮官やその部族とワラー関係を結んだうえで自らや一族の子弟と婚姻関係を結ぶ場合も多く見られた。このように、アラブの部族のマワーリーすなわち庇護民となるのが一般的であったが、イスラーム政権での制度上では、租税などの面でアラブ人ムスリムと同等に扱われることはほとんどなかった[4]


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