ハラージュ
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ウマル2世はまた、719年以降、これまでウシュルを支払っている者はそのままみとめ、イスラーム教徒がハラージュを納めていた農地(ハラージュ地)を所有することを禁じ、これは国有地を貸借しているのであるから、その対価としてハラージュを支払わなければならないとした[4][9]。すなわち、イスラーム法が整備されていくなかで、すべての土地はムスリム全体の共有物であり、それゆえ土地からの収益もイスラーム社会全体に還元されるべきものであるという、実質的な土地国有の観念が確立したのであり、これによって、政府は土地の所有者の宗教に関係なく、土地税としてハラージュを課すことができるようにしたのである[10]。そのうえで異教徒であるズィンミーを公職から追放し、かれらからはいっそうの重税を課すことにした。

ウマル2世のジズヤにおける税制改革はほとんど成功せず、収入減と支出増をまねき、行政府の混乱もまねいたとされる[4] が、第9代のヤズィード2世や第10代のヒシャームによって継承され、また「神の前におけるムスリムの平等」という理想はのちにアッバース朝によって実現されることとなった。
アッバース革命とハラージュ

征服王朝の性格の強かったウマイヤ朝の支配は、領域的拡大が飛躍した反面、王朝政府とアラブの諸部族との対立、また、部族的にみれば南アラブと北アラブとの抗争、シーア派の成立とその主張、分派であるハワーリジュ派の反体制主義的な運動、非アラブ人改宗者(マワーリー)たちのムスリム平等の希求などによって政情は必ずしも安定しなかった[11]現在のバグダード

アッバース革命」は、このようなウマイヤ朝支配に不満をいだく人びとが、預言者ムハンマドの叔父アッバースの子孫イブラーヒーム・イブン・ムハンマドのすすめる改革運動に協力することで拡大していった。この革命は成功し、アッバース朝750年-1258年)がひらかれてイスラーム世界のあり方が一変した。南イラクの平原の中心には新しい首都としてバグダードが建設され、イブラーヒームの弟アブー・アル=アッバース(サッファーフ)は新しい王朝のカリフとなった(在位:750年-754年)。

アッバース朝治下では、それまでの非アラブ人に対する税制上の差別待遇が撤廃された。すなわちムスリムであれば非アラブ人であってもジズヤは課されず、その一方でアラブの特権は排されて、アラブ人であっても土地を所有していればハラージュが課されるようになった。言い換えると、ハラージュ地は土地所有者の宗教にかかわりなくハラージュを支払い、ズィンミーはそのほかに人頭税ジズヤを支払うこととなったのである。こうして、「神の前での平等」が成立し、信者間の民族差別人種差別が解消した[11]。ウマイヤ朝がそのアラブ人中心主義から「アラブ帝国」と称されるのに対し、アッバース朝は地域や民族の垣根を越えてイスラーム法(シャリーア)が社会のすみずみにまで行きわたった「イスラーム帝国」としての内実を備えるようになったのである[11]

アラブ人ムスリムのハラージュ納入に際して援用された理論が、前代のウマル2世によってはじめられた国家的土地所有の理論であり、それによれば征服地は本来ムスリム全体の所有に帰属する不可分な土地財産(ファイ[12])であり、これを用益するアラブ人ムスリムは地代としてのハラージュを国家に納入する義務を負い、これはマワーリーやズィンミーと同額でなければならないとするものである[3]

アッバース朝5代カリフでイスラーム帝国の全盛期を築いたといわれるハールーン・アッ=ラシードに仕えた8世紀のイスラム法学者で、カリフの政治顧問と初代大カーディー(裁判長)に任じられたアブー・ユースフの著に『ハラージュの書』がある。

ハラージュは、国庫収入に占める割合がもっとも大きく、帝国の首府と各州の州治には税務庁(ディーワーン・アル=ハラージュ)が設置され、早くから徴税組織が整備されてきた[9]。ハラージュは金納か現物納、もしくはその両方で徴収された。その課税方法には土地面積に応じて毎年一定額を徴収する定額制のミサーハと、毎年の実際の収穫量のほぼ半分を徴収する産額比率制のムカーサマの2つがあった[3][10]。また、カリフの名において官吏を任免して諸官庁の監督し、ハラージュ地および私領地からの徴税、さらに最高裁判所判事などの業務を担当するアッバース朝の宰相は大きな権限をもち、9世紀頃から、文官を指揮する責任者としてワズィールとよばれた。

イスラーム教はしばしば「コーランか、剣か」という言葉に代表されるようにイスラーム宣教を大義としてジハード(聖戦)を展開した好戦的、熱狂的な宗教と理解されることがあるが、実際には異教徒の改宗にはあまり熱心ではなかった。イスラーム教自体が安易な改宗を嫌う性質の宗教であったためもあるが、イスラーム王朝の国家財政にとっては、改宗によってジズヤが納められなくなることは、ただちに収入減につながったからである。そして、異教徒はジズヤやハラージュを納めさえすれば「契約の民」ズィンミーとして彼らの信仰生命財産自由は保証され、宗教的共同体(ミッラ ???? milla)としての自治を許されたのである[1]

なお、11世紀初めの シャーフィイー学派の法学者マーワルディーの著した『統治の諸規則』には、ハラージュが土地そのものに課される賦課であり、課税額は、その土地が負担できる額によって決まること、徴税者は、土地の質の違いや作物の違い、水利方法の違いなどをよく考慮して課税額を定めるべきことが記載されている[13]
イクター制とハラージュ


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