ハラージュ
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このように、アラブの部族のマワーリーすなわち庇護民となるのが一般的であったが、イスラーム政権での制度上では、租税などの面でアラブ人ムスリムと同等に扱われることはほとんどなかった[4]

各征服地にはアミールとよばれる徴税官が派遣された。イスラーム教徒は被支配者に、おおむね旧支配者が課していたのと同程度の税を課した[2]。しかし、ジズヤとハラージュとは併せて村落単位で一括徴収されたため、実務的にも、また用語的にも両者を厳密に区別する必要がなく、両者を併せたものが旧東ローマ帝国領では「ジズヤ」、旧サーサーン朝領では「ハラージュ」と呼称されていた[3][7]
ウマイヤ朝

ウマイヤ朝(661年-750年)は、カリフ位の世襲制を採用したイスラーム世界では最初の王朝スタイルの政権であり、ムスリムであるアラブ人による集団的な異民族支配を国家統治の原理としていた。そして、被支配者である非アラブ人のなかからイスラームに改宗する者が多くなるにつれて、彼らからのの徴収をどう立法化するかが大きな問題となってきた。8世紀初頭、耕作者や土地保有者が非イスラーム教徒であれ、改宗者であれ、税は土地そのものに課せられる、という土地税の概念が確立した。その土地税は人頭税ジズヤとは明確に区別されたものとして「ハラージュ」として確立され、ハラージュの課せられた農耕地は「ハラージュ地」と称されてイスラム税法の完成をみた[2]アブドゥルマリクによって建設された「岩のドーム」(エルサレム

英主として知られる第5代カリフのアブドゥルマリク(在位:685年-705年)は、聖地メッカに拠ってカリフを自称し反ウマイヤ朝行動をとっていたイブヌッ・ズバイルに対し、アル=ハッジャージュ(ハッジャージュ・ブン・ユースフ)を将とする大軍をメッカに派遣して、これを討伐させて帝国支配を回復した。戦後、アブドゥルマリクはアル=ハッジャージュをイラク総督に任じた[8]。ハラージュは元来、ジズヤとともに、改宗しないズィンマの民(ズィンミー)に対する貢租であったが、ズィンミーがイスラームに改宗してハラージュを納入しなくなり、国庫収入の減少をまねいたので、これを防ぐためアル=ハッジャージュは、都市に集中した改宗者の帰農を促し、ムスリムでも異教徒と同様、ハラージュを納めさせた[9]。アブドゥルマリクは、租税徴収の官庁ディーワーン・アル=ハラージュ(d?w?n al-khar?j)の公用語をアラビア語に統一し、その役人には、すべてイスラーム教徒を任じた[8]

こうして、ウマイヤ朝では、非アラブ人はズィンミーとしてジズヤとハラージュの納税義務を負わせるアラブ人至上主義が採用された。それゆえ、ウマイヤ朝は、アラブ人による征服王朝としての性格を濃厚に有していると評される[8]。しかし、ハラージュをマワーリー(非アラブ人改宗者)から徴収する政策はすこぶる不評であった。とくに首都ダマスクスのあるシリア在住の改宗ペルシャ人は、大征服時代の初期段階でムスリムとなったにもかかわらず、アラブ人ムスリムとのあいだに税負担の不平等があることに大きな不満をいだいていたのである。

ウマイヤ朝の第8代カリフであったウマル2世(ウマル・イブン=アブドゥルアズィーズ、在位:717年-720年)は、こうした不満をみてとり、また、ズィンミーのイスラームへの改宗を奨励しようとして、ズィンミー(異教徒)とマワーリー(非アラブ人改宗者)の租税負担に差を設ける必要をうったえ、マワーリーからのジズヤ徴収を停止しようとした[3]

ウマル2世はまた、719年以降、これまでウシュルを支払っている者はそのままみとめ、イスラーム教徒がハラージュを納めていた農地(ハラージュ地)を所有することを禁じ、これは国有地を貸借しているのであるから、その対価としてハラージュを支払わなければならないとした[4][9]。すなわち、イスラーム法が整備されていくなかで、すべての土地はムスリム全体の共有物であり、それゆえ土地からの収益もイスラーム社会全体に還元されるべきものであるという、実質的な土地国有の観念が確立したのであり、これによって、政府は土地の所有者の宗教に関係なく、土地税としてハラージュを課すことができるようにしたのである[10]。そのうえで異教徒であるズィンミーを公職から追放し、かれらからはいっそうの重税を課すことにした。

ウマル2世のジズヤにおける税制改革はほとんど成功せず、収入減と支出増をまねき、行政府の混乱もまねいたとされる[4] が、第9代のヤズィード2世や第10代のヒシャームによって継承され、また「神の前におけるムスリムの平等」という理想はのちにアッバース朝によって実現されることとなった。
アッバース革命とハラージュ

征服王朝の性格の強かったウマイヤ朝の支配は、領域的拡大が飛躍した反面、王朝政府とアラブの諸部族との対立、また、部族的にみれば南アラブと北アラブとの抗争、シーア派の成立とその主張、分派であるハワーリジュ派の反体制主義的な運動、非アラブ人改宗者(マワーリー)たちのムスリム平等の希求などによって政情は必ずしも安定しなかった[11]現在のバグダード

アッバース革命」は、このようなウマイヤ朝支配に不満をいだく人びとが、預言者ムハンマドの叔父アッバースの子孫イブラーヒーム・イブン・ムハンマドのすすめる改革運動に協力することで拡大していった。この革命は成功し、アッバース朝750年-1258年)がひらかれてイスラーム世界のあり方が一変した。南イラクの平原の中心には新しい首都としてバグダードが建設され、イブラーヒームの弟アブー・アル=アッバース(サッファーフ)は新しい王朝のカリフとなった(在位:750年-754年)。


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