ハラージュ
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のちにイラン高原や中央アジアのソグディアナ(いわゆるマー・ワラー・アンナフル)への征服が進むと、その地域にいたゾロアスター教徒の住民たちも、同じく「啓典の民」として扱った[1][4]タバリーやバラーズリーなどの歴史家が伝えるところでは、8、9世紀の北インド遠征でも、アラブ軍に降伏した仏教勢力の人々に対しても、モスクの建設やズィンミーとして租税を課す代わりにズィンミーとして従来の信仰や生活が保障された例が見られる。被征服国の公有地やイスラーム政権に抵抗した人びとの私有地は没収されたが、ズィンミーの土地の場合は現状のままとして、それに保護(ズィンマ)を加えた。没収地は政府で管理したが、アラビア以外ではムスリムに分け与える場合もあり、また、ムスリムが土地を購入することも認めた[4]。イスラーム教徒に分与された土地はカティーアとよばれた。人頭税や土地税を納める義務をもつのは本来的には異教徒のみで、イスラーム教徒の場合はザカートと、その人がカティーアを所有する場合は「ウシュル」とよばれる少額の地租(「十分の一税」とも訳される[6])とを納入すればよかった。イスラーム教徒には、他にも特権があったので、被征服民は続々とイスラームに改宗した。

アラブ征服時代、各地に進出したアラブ軍は多くが部族集団単位で行動する一方で、現地勢力とワラー関係、つまりパトロヌス・クリエンテス、保護・被保護の関係を結んだ。ワラー関係とは、イスラーム以前からあったアラブの社会慣習のひとつで、何らかの理由で当該の部族や家族、個人と保護・被保護の関係を結ぶことを言ったが、このパトロンクライアント関係の当事者のことをマウラー( ???? mawl?)と呼び、その複数形がマワーリーである。アラブ征服時代に、アラブ戦士(アラブ・ムカーティラ)が遠征先の現地勢力や個人とワラー関係を結び、マウラー、マワーリーとなった。元来、アラブでのワラー関係の当事者となる対象は自由身分や奴隷身分かは問われず、アラブ・ムカーティラもアラブの慣習を遠征先でも用いた。そのためマウラー、マワーリーとなった現地の人々も領主クラスの自由人から一般民衆、家人、奴隷など様々であり、マワーリーがすなわち奴隷身分になるということでは無かった。現地の人々は、多くの場合アラブ・ムカーティラとワラー関係を構築したうえでその庇護民となったが、現地の豪族たちはアラブ軍の指揮官やその部族とワラー関係を結んだうえで自らや一族の子弟と婚姻関係を結ぶ場合も多く見られた。このように、アラブの部族のマワーリーすなわち庇護民となるのが一般的であったが、イスラーム政権での制度上では、租税などの面でアラブ人ムスリムと同等に扱われることはほとんどなかった[4]

各征服地にはアミールとよばれる徴税官が派遣された。イスラーム教徒は被支配者に、おおむね旧支配者が課していたのと同程度の税を課した[2]。しかし、ジズヤとハラージュとは併せて村落単位で一括徴収されたため、実務的にも、また用語的にも両者を厳密に区別する必要がなく、両者を併せたものが旧東ローマ帝国領では「ジズヤ」、旧サーサーン朝領では「ハラージュ」と呼称されていた[3][7]
ウマイヤ朝

ウマイヤ朝(661年-750年)は、カリフ位の世襲制を採用したイスラーム世界では最初の王朝スタイルの政権であり、ムスリムであるアラブ人による集団的な異民族支配を国家統治の原理としていた。そして、被支配者である非アラブ人のなかからイスラームに改宗する者が多くなるにつれて、彼らからのの徴収をどう立法化するかが大きな問題となってきた。8世紀初頭、耕作者や土地保有者が非イスラーム教徒であれ、改宗者であれ、税は土地そのものに課せられる、という土地税の概念が確立した。その土地税は人頭税ジズヤとは明確に区別されたものとして「ハラージュ」として確立され、ハラージュの課せられた農耕地は「ハラージュ地」と称されてイスラム税法の完成をみた[2]アブドゥルマリクによって建設された「岩のドーム」(エルサレム

英主として知られる第5代カリフのアブドゥルマリク(在位:685年-705年)は、聖地メッカに拠ってカリフを自称し反ウマイヤ朝行動をとっていたイブヌッ・ズバイルに対し、アル=ハッジャージュ(ハッジャージュ・ブン・ユースフ)を将とする大軍をメッカに派遣して、これを討伐させて帝国支配を回復した。戦後、アブドゥルマリクはアル=ハッジャージュをイラク総督に任じた[8]。ハラージュは元来、ジズヤとともに、改宗しないズィンマの民(ズィンミー)に対する貢租であったが、ズィンミーがイスラームに改宗してハラージュを納入しなくなり、国庫収入の減少をまねいたので、これを防ぐためアル=ハッジャージュは、都市に集中した改宗者の帰農を促し、ムスリムでも異教徒と同様、ハラージュを納めさせた[9]。アブドゥルマリクは、租税徴収の官庁ディーワーン・アル=ハラージュ(d?w?n al-khar?j)の公用語をアラビア語に統一し、その役人には、すべてイスラーム教徒を任じた[8]

こうして、ウマイヤ朝では、非アラブ人はズィンミーとしてジズヤとハラージュの納税義務を負わせるアラブ人至上主義が採用された。それゆえ、ウマイヤ朝は、アラブ人による征服王朝としての性格を濃厚に有していると評される[8]。しかし、ハラージュをマワーリー(非アラブ人改宗者)から徴収する政策はすこぶる不評であった。とくに首都ダマスクスのあるシリア在住の改宗ペルシャ人は、大征服時代の初期段階でムスリムとなったにもかかわらず、アラブ人ムスリムとのあいだに税負担の不平等があることに大きな不満をいだいていたのである。

ウマイヤ朝の第8代カリフであったウマル2世(ウマル・イブン=アブドゥルアズィーズ、在位:717年-720年)は、こうした不満をみてとり、また、ズィンミーのイスラームへの改宗を奨励しようとして、ズィンミー(異教徒)とマワーリー(非アラブ人改宗者)の租税負担に差を設ける必要をうったえ、マワーリーからのジズヤ徴収を停止しようとした[3]

ウマル2世はまた、719年以降、これまでウシュルを支払っている者はそのままみとめ、イスラーム教徒がハラージュを納めていた農地(ハラージュ地)を所有することを禁じ、これは国有地を貸借しているのであるから、その対価としてハラージュを支払わなければならないとした[4][9]


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