ハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニー
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この頃から、国政全般を取り仕切るようになった[3]

1995年6月26日、いとこと共謀してスイスで休暇中の父を首長から解任し、6月27日に自らが首長の地位に就いた[4]

2013年6月25日、太子のタミーム・ビン・ハマド・アール=サーニーに、権力を委譲することを発表した[5]
人物
思想と活動

夫人3人を持つ。アラビア語、英語を話す[6]。スポーツ愛好家であり、ダイビング[要曖昧さ回避]にも熱心であった。また、鷹狩、馬の飼育、競馬観戦の趣味もある[6]

政策にもこれらが影響しており、国内工業化に特化した政策を取っていた父と比べて、天然ガス開発、行政合理化、民営化、カタール人優先雇用政策などに力を入れている[3]

カタール国内の運動競技発展に努めており、ハマドの活動によって、カタール国内で

2001年 - :カタール・トータル・オープン (テニス)

2002年 - :カタール国際ユーストーナメント (サッカー)

2006年アジア競技大会(ドーハ)

などの国際大会も開催されるようになっている。

外交活動にも積極的で、湾岸協力会議や数々の国際フォーラムでカタール代表を務めている。そのため、オマーンエジプトサウジアラビアインドネシアベネズエライギリスフランスモロッコなど各国から勲章を贈られている。

1997年、ハマド首長指導の下、カタールは女性に投票権を与えている。これは湾岸協力会議加盟国の中では初[3]である。

2012年10月23日、2007年にハマースガザ地区を制圧して以来、外国の元首として初めてガザ地区を訪問したように、ハマースと強い関係を有し、これを支援している[7]
アルジャジーラの設立

1996年、ハマド首長から1億5000万米ドルの資金提供を受け、衛星テレビ局アルジャジーラが設立された。アラブ諸国にある放送局としては、最も影響力があり、係争事件も多い。

2001年までに広告収入による独立採算制を目指していたが、これは果たせず、ハマド首長は毎年補助金を提供することに同意している。2004年の補助金は3000万米ドルであった[8]。2000年の広告収入は、全収入の40%を占めている[9]
脚注^ Amiri Diwan ⇒H.H. the Amir-Biography Archived 2011年12月2日, at the Wayback Machine.
^ a b 宮田律 ⇒『シェイフ・ハマドの夢』、2008年、中東協力センターニュース
^ a b c 在カタール日本国大使館カタール情報
^World Factbook 2000 [E] - QATAR (by the CIA)


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