ハプスブルク=ロートリンゲン家
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代償としてフランツはトスカーナ大公国の大公位を継承した。フランツは父方からメディチ家のトスカーナ大公フランチェスコ1世の長女エレオノーラ・デ・メディチの、母方から六女マリー・ド・メディシスの血を引いていた。
オーストリア継承戦争「オーストリア継承戦争」および「ハプスブルク帝国」も参照フランツ・シュテファンマリア・テレジア

神聖ローマ皇帝カール6世は帝位および家督を継がせる男子を得られず、同族にも後継者たり得る男子がなかったため、国事詔書に基づいて娘マリア・テレジアを相続人とし、ハプスブルク家領およびボヘミアハンガリーの王位、オーストリア大公位などを継がせ、帝位にはその夫のロレーヌ公フランツ・シュテファンを就かせることを取り決めた。そして、神聖ローマ帝国の諸侯にこれを承認させた。

カール6世が1740年に没すると、プロイセン王フリードリヒ2世バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトポーランド王ザクセン選帝侯アウグスト3世らがルイ15世と同盟を結び、先の取り決めを無視して領土の割譲や帝位を要求し、オーストリア継承戦争が勃発した。カール・アルブレヒトとアウグスト3世はそれぞれカール6世の兄ヨーゼフ1世の娘(マリア・テレジアの従姉)マリア・アマーリエマリア・ヨーゼファを妃としており、妻の相続権を主張していた。この戦争によってオーストリアはフリードリヒ2世にシレジアを奪われ、またカール・アルブレヒトがボヘミアを一時占領した上に皇帝カール7世として戴冠した。しかしマリア・テレジアの下でオーストリアは反撃に転じ、シレジアを取り戻すことはできなかったものの、ボヘミアからバイエルンを撃退し、カール7世がわずかな在位期間ののち1745年に没すると、フランツ・シュテファンがフランツ1世として皇帝位に就いた。以後、神聖ローマ皇帝位は帝国の解体までフランツ1世、およびフランツ1世とマリア・テレジアの子孫によって継承された。
ブルボン家との同盟フランス・ブルボン家に嫁いだマリア・テレジアの皇女マリー・アントワネット

ハプスブルク家とフランス王家は長年にわたり敵対関係にあったが、マリア・テレジアの下で「外交革命」と呼ばれる外交方針の転換がなされ、両者の間に同盟関係が成立した。その一環として、フランツとマリア・テレジアの子女と、フランス・スペイン・イタリアのブルボン家諸家の間で政略結婚が頻繁に行われた。ハプスブルク・ブルボンの両家は古くから近親婚を重ねており、またブルボン家はハプスブルク家ともロレーヌ家とも色濃い血縁関係があったことから、両家の間でさらに近親婚を繰り返したことで早世したり体に障害を持った人物が続出した。

また、ブルボン家との関係の重視は反面でドイツ諸邦との関係の弱体化につながった。ハプスブルク家の皇帝は大国フランスに対抗する存在としてドイツ諸邦(これにはかつてのロレーヌ公国も含まれる)から支持されてきた一面があり、両大国が手を結んだことで諸侯は危機感を募らせた。それはやがてプロイセンに対するドイツ諸侯の支持を相対的に高め、神聖ローマ帝国の崩壊に始まり、普墺戦争を経て、ドイツ統一の主導権をプロイセンに奪われる結果につながった。さらに、南北イタリアのブルボン家との結びつきもハプスブルク家の北イタリア支配の維持にはつながらず、両家はともにサルデーニャ王国によるイタリア統一によってその座を追われた。
家系の主な系統

フランツ・シュテファンの弟カール・アレクサンダー公子はマリア・テレジアの妹マリア・アンナと結婚している(二重結婚)が、兄姉夫婦の子孫が大いに繁栄したのと対照的に、こちらは子孫を残せなかった。

フランツ・シュテファンとマリア・テレジアの間には5人の男子がいたが、次男カール・ヨーゼフは成人に達せずに早世し、長男ヨーゼフ2世と五男マクシミリアン・フランツには子供がなかったため、三男レオポルト2世の系統と四男フェルディナントの系統のみが家系として継続した。フェルディナントの系統は19世紀に断絶しており、現存する系統はいずれもレオポルト2世の男系子孫である。
オーストリア皇帝家「オーストリア皇帝」も参照ハプスブルク=ロートリンゲン家の人々(1860年頃)。手前、右側、椅子に座るシルクハットの男性がフランツ・カール大公、中央の女性がゾフィー大公妃、右の子どもを抱えた女性がエリーザベト皇后、その後ろの帽子に髭の人物が皇帝フランツ・ヨーゼフ1世、その右隣りのあごひげの人物がその次弟マクシミリアン大公、その右隣の女性がその妃シャルロッテ、その隣りが末弟ルートヴィヒ・ヴィクトル大公、右端の人物が三弟カール・ルートヴィヒ大公

ハプスブルク=ロートリンゲン家の宗家にあたる。神聖ローマ皇帝オーストリア大公の他にハンガリー王ボヘミア王も兼ねていた。神聖ローマ帝国は1806年に解体し、フランツ2世は帝位を降りたが、これに先立つ1804年からオーストリア皇帝フランツ1世を称しており、以後はこの皇帝位がオーストリア=ハンガリー帝国の滅亡まで継承された。これらの帝位および王位はフランツ・シュテファンとマリア・テレジアの夫妻から最後のカール1世まで7代にわたって継承されたが、直系継承されたのは3度だけである。

フランツ・シュテファンとマリア・テレジアの長男ヨーゼフ2世は父から帝位を、母からオーストリア大公位およびハンガリーとボヘミアの王位を継承したが、子供がなく、トスカーナ大公位を継承していた弟レオポルト2世が代わって帝位および王位に就いた。レオポルト2世からフランツ2世/1世フェルディナント1世までは直系継承が続いたが、子供のないフェルディナント1世が1848年3月革命で退位すると、弟フランツ・カール大公(帝位を辞退)の長男フランツ・ヨーゼフ1世が即位した。


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