ハプスブルク帝国
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ハプスブルク帝国(ハプスブルクていこく)[1]は、オーストリアハプスブルク家(のちハプスブルク=ロートリンゲン家)の君主により統治された、神聖ローマ帝国内外の領邦国家などの国家群による同君連合である。

成立年はハプスブルク家がオーストリア大公国に加えてハンガリー王国王領ハンガリー)、ボヘミア王国ボヘミア王冠領)を獲得した1526年とされる。1804年までは公式の名称を持っていなかったが、同時代の人々ですらこれを事実上の単一国家として認識され、オーストリアと呼称していた。

ただし、これより古い時代の、神聖ローマ皇帝スペイン王を兼ねたカール5世を君主とする国家群なども、広く「ハプスブルク家の帝国」といった意味で「ハプスブルク帝国」と呼ばれることがある。
名称

単一の「帝国」ではなかった、あるいは推戴する君主が「皇帝」でなかった時代もあるが、日本語ではこの呼称が用いられることが多い。ドイツ語では Habsburgermonarchie または Habsburgisches Reich であるが、前者は直訳するとハプスブルク君主国であり、後者の場合もライヒ (Reich) は必ずしも「帝国」を意味しない。
歴史と特色
神聖ローマ帝国

ハプスブルク家13世紀ルドルフ1世以降、神聖ローマ帝国内の一領邦として、現在のオーストリアスロベニアを中心とした地域を所領としていた。オーストリアは帝国の辺境伯領の一部で、オーストリア公国オストマルク)をなしていたが、ルドルフ4世は「大公」を自称し、後に神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世が帝国法で「大公」を正式の称号と定めてオーストリア大公国が出現した。以降、帝国におけるオーストリアの地位は上昇した。

1526年ハンガリーラヨシュ2世モハーチの戦いで戦死すると、皇帝カール5世の弟、オーストリア大公フェルディナント(後の皇帝フェルディナント1世)がハンガリーとボヘミアの王位を継承することになった。ボヘミアは帝国内の王国でボヘミア王は選帝侯の一人でもあったが自立性が強く、またハンガリーは帝国の領域外にあり、ハプスブルク家は皇帝としてではなく、あくまでボヘミア王およびハンガリー王としての資格でそれぞれを統治下に置いた。一方、ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝位を事実上世襲し、形式上は現在のドイツを中心とする帝国の領域の君主であったが、実質的にその統治はハプスブルク家の所領の外には及んでいなかった。ハプスブルク家の統治が及んでいた帝国内外の領域は、全体としては公式の名称を持っていなかったが、事実上は一つの国家として機能していた。同時代の人々もこれを国家として認識し、オーストリア(エースターライヒ)と呼称していた。

ハプスブルク家の所有した官僚制はフェルディナント1世が再編成し、多様化させた。その頂点に枢密顧問会議(デア・ゲハイメ・ラート)が置かれた。この最高機関は、ドイツ各地が甚大な被害を受けた三十年戦争のさなかにあっても皇帝の意見よりハプスブルク王朝の利益を優先した。議員には常にボヘミア人がおり、その一人であるヴェンツェル・オイゼビウス・フォン・ロプコヴィッツにより、会議は枢密院「ディー・ゲハイメ・コンフェレンツ」へ刷新されて、レオポルト1世の政治判断を左右した[2]。枢密院以外では軍が強かった。官房間では政治闘争が繰り返された。会計局は、自由都市の経済と、戦中でも豊かなボヘミアからの収入を完全管理した。大トルコ戦争の後は、解放域の開発・通商による収益を誰にも掠め取られることなく帝国宝庫に納めた。こうした財源は軍事費につぎこまれた。宮廷軍事局の指令は法律同然であり、辺鄙な村落すら軍規に従わされた[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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